風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

言語(思考)の身体化を考えるー『るろうに剣心』と『大事なものは見えにくい』と・・

本屋で手にして『大事なものは見えにくい』を購入することにしたのは、「佇まい」という章の次のような文章を目にしたからだった。

 イタリアから帰国したあと、留守中にたまっていた仕事をばたばたと処理して、息つぐ間もなくベトナムへ行ってきた。
(中略)
 喧噪から一歩退いて、裏通りに入ると、密集しているのに信じられないほどゆったりした時間が流れている。その一角で現地のひとたちとの仕事は始まった。その静けさのなかで、ふと眼についたものがある。働いているひとたちの手もとだ。ひとりはそっと両手で受話器を戻す。別のひとりがそっと両手でマイクロフォンをテーブルに置き、これから始まる会議を待つ。その横から、漆黒のコーヒーをたたえたカップがそっと両手で差しだされる。ああ、なんと物静かな手つき。
 立居、物腰、そして身のさばき。イタリア野郎に感じたあの野性の高貴さに堂々と並び立つ、妙なる気品。どちらの街もあれほどざわめきにあふれかえっていたのに、ひとの仕草にははっとするような閑けさが漂っていた。
 わたしたちが忘れ果てた「ゆとり」とは、こういう丁寧さを言うのであり、そうした一瞬のかぎりなく静謐なあわいに、そっと漂うものなのだろう。
(中略)
・・。ハノイのひとたちが物にふれるときのあの丁寧さ、そこに凝集しているあの静謐な緊張のなかにこそ、ゆとりのほんとうのかたちがあるようにおもう。
 物への敬意といおうか、・・。ゆとりとは、じぶんが自由にできる時間をもつということではなくて、意のままにならないもの、それは物であったり別の生き物であったり記憶であったりするが、そういうものの一つ一つに丁寧に接するなかで生まれてくるものであるはずだ。それは、じぶん以外の何かを迎えいれうる、そういう空白をもっているということであって、くつろぐ、つまりじぶんの気に入ったものでまわりを満たすという態度とは正反対のものなのである。ゆとりは、だから息抜きではなく、精進のたまものである。楽しては手に入らないのだ、《自由》という気品は。
                    鷲田清一=著『大事なものは見えにくい』(角川文庫)

ここに描かれているのは、言語(思考)が身体化されている様子ではないだろうか。物へというか、周囲(他)への「配慮」ー「慈しむ」という言語(思考)が身体化されているのだ、と思う。


映画『るろうに剣心の「伝説の最期編」だけを、しばらく前に観た。教えを請う剣心の喉元に師匠役の福山雅治が焼け火箸を突きつけるような場面もあるのだが、微動だにしない剣心役の佐藤健君を見ていて、すでに師匠の静けさを上回ってしまっていると思ったのだった。精神が身体化されている、と。科学的に考えて、交感神経と副交感神経が同時に働くことはないのだと思うのだが、この時の佐藤健の姿には交感神経と副交感神経が同時に作働していると感じた。


就職浪人をしていた時、年末から病休補充教員として障害を持った子どものクラスに入った。翌年の3月末までの雇用だったが、当初、何をどう指導すれば良いのか全く分からなかった。しかし、11月からの雇用だったために、働きに見合わない高額のボーナスを手にした。そういった時の人のというか、自分の心の動きというのは不思議なもので、私はそのお金を持って「一枚の繪」の展示会場に向かい、その場で高価な絵を購入したのだった。「夕景」という題の美しい北の海辺を描いた絵を。
絵を購入すれば、その後一年間、「一枚の繪」の月刊誌が無料で送られてくる。その中に、「NAOKO」という同じ女性ばかり描く画家の絵が載っていた。私はその画家が描く女性の姿に引き込まれた。随分後になってその画家について問い合わせをした時には、もう絵を描くことは止めているということだったのだが、その中の「NAOKO・静謐」と題された絵を、いつか購入したいと思っていたのだった。

「静謐」というのは、何か遙かなるもの、大いなるものに向いている、触れている姿ではないかと思う。その人の芯の部分がしいんと鎮まっていて、外側にはふんわりと柔らかなものを纏っている、そんな「静けさ」を身につけたいと願う。どんな喧噪の中にあっても。