風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『アンが愛した聖書のことば』宮葉子=著(いのちのことば社フォレストブックス)


「牧師館のお茶会」の宮葉子さんが、この春、新しい著書を出された。ー『アンが愛した聖書のことば』(いのちのことば社フォレストブックス)
『アンが愛した』の「アン」はもちろん、赤毛のアンの、最後にeの字の付いた「アン(Anne)」のこと。

子どもの頃に転校することの多かった著者の宮葉子さんは本を友達として過ごしてこられた。中でも『赤毛のアン』は、腹心の友と呼べるほどの大切な書物だったようだ。大人になってキリスト者になられた宮さんは、その『赤毛のアン』の中にモンゴメリがそっと織り込んでいた聖書の言葉を発見された。だから今回も、各章の初めには聖書の言葉が掲げられている。

私自身が『赤毛のアン』を読んだのは、30を過ぎて娘が生まれる前後(はっきり記憶していない)に松本侑子訳の完訳で読んだと思うので、働き手として希望していた男の子に替わって連れて来られた女の子がマリラの中でかけがえのない存在になっていくところに心を揺り動かされながら読んだのだった。だから読み終えても、子どもの本というより大人の、むしろ母親になっていく者のための本として捉えてしまっていて、娘がもう少し大きくなったら読み聞かせしようとも考えなかったのだと思う。


ある夜、私は、どうしたら「自分で獲得した信仰」という思いから抜け出して、本物の信仰を手にすることが出来るのだろうかと思いあぐねていた。その日の午後ずっと考えて夜眠りについたのだった。そうして朝目を覚ました時、「ただ捕えようとして追い求めているのである。」(ピリピ3:12)というパウロの言葉が頭の中に響いていた。そして、ヤコブが一晩中格闘して神から祝福を受けた場面が浮かんだ。その朝、私は《こたえ》を得たのだった。


『アンが愛した聖書のことば』11章「新しい朝」には、詩篇90篇14節の美しい御言葉が選ばれている。そして次のように記されている。

 アンは、神の創られた自然、木や花々や小川や丘や海のきらめきから喜びという力をいただく。新しい朝は、心を明るい場所に置き直すのにはもっともふさわしい時間帯だ。
 グリン・ゲイブルスの朝の印象が鮮やかなので、アンというと朝のイメージを私は持っているが、物語では思い悩む夜の場面が思いのほか多い。
(中略)
 アンは与えられた場を、いつもよいものにしようと肯定的にとらえる。日々、新しい朝を喜ぶことはアンの賜物だ。喜びは人生に夜明けを引き寄せる。五年前に孤児としてグリン・ゲイブルスに来たアンは、新しい朝が必ず来ることを、だれよりもよく知っているのだと思う。(『アンが愛した聖書のことば』より)

私はこの朝、この「新しい朝」の章に、ローマ人への手紙13章の御言葉をつけ加えたいと思った。

夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。(ローマ人への手紙13:12)

そして讃美歌ならばこんな讃美歌を。

讃美歌30

3 かがやくとこ世のあした
  わがたまめさむるとき
  この世の朝よりきよく
  あおぎみん神のみかお