風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

神と一晩中格闘したヤコブから


● “ダイモーンに対して取りうる最上の態度とは、それを避けることではなく、その声を耳を澄ませて聴き、そのいわんとするところを理解することだ。悲劇とは、自分のダイモーンを自覚できなかった者たちの敗北の物語にすぎない”
 
ある夜、どうしたら「自分で獲得した信仰」という思いから抜け出して、本物の信仰を手にすることが出来るのだろうかと、思いあぐねていた。その日の午後ずっと考えて夜眠りについたのだった。そうして朝目を覚ました時、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めている」(ピリピ3:12)というパウロの言葉が頭の中に響いていた。それに続いて、ヤコブが一晩中格闘して神から祝福を得た場面が浮かんできた。

私たちは、うっかりしていると、死へと至る様々な“信仰”という落とし穴にはまり込んでしまう。神に服従したように見えて、自分の思いをねじ伏せて、神にはもう求めないという状態に陥っている場合もある。それを信仰と呼び、私は理不尽な神に従って生きて来たのだと思っていたりする。

旧約の、神からイスラエルという名を貰ったヤコブは、長子の権利を得ようと父イサクを欺き、兄のいる父の元から逃亡するという人の世の掟から見れば決して褒められた人物のようには思えないのだが、祝福を獲得するまでは諦めないという利点があったように見える。ヤコブはどこまでも自分の祝福を求めたように思えるが、結果としてこの祝福は、ヤコブに続く子々孫々に受け継がれていくことになるのである。(創世記32:24~33)

ヤコブと同じような人物として、福音書に記されているスロ・フェニキヤ生まれの女を思い浮かべる。この女も、娘の病を癒していただこうとイエスにどこまでも食い下がったのであった。この女が求めたのも自分の娘の癒しであったが、結果としてここから異邦人へと福音がひろがっていくのである。(マルコ福音書7:24~30)

「あきらめなかった」故に、と言えば、逆に自らの力で信仰を獲得したように思えるのだが、そうではないのだと思う。私たちはしばしば諦めることで、信仰を歪めてしまうように思える。パウロの言葉にあるように、「前のものに向かってからだを伸ばしつつ」(ピリピ3:13)ひたすら神に求めていくとき、神がその手を取って、ご自分の元へと引き寄せてくださるのである。神がそうしてくださるのでなければ、私たちは信仰を得ることは出来ない。

しかし、求めても得られそうにないものもある。例えば、愛する者が亡くなった場合などである。けれど、何故と問い続ければ、いつか答が返されるのだと信じる。
求めれば、捜せば、門をたたき続ければ、神によって与えられ、見出さされ、開けられるのである。そうなれば、もはや自分で自分の思いをねじ伏せて、自分で信仰を獲得したのだと自負する必要はなくなるのだ。


私はこのところ自分の信仰がどこへと向かっているのかを確認しなくては、と思わされている。裁くためではなく、その後に続いて行って良いのかを吟味するために、私の前を歩いた信仰者の信仰について思い巡らす必要があると思い始めている。

「葛原妙子49」で、私はグスタフ・マーラーについて言及し、カトリックに改宗していたとしても作曲を続けている限り、心の平安は得られなかったのではないかと思った」と書いた。けれど、心の平安が得られるということと救われるということは別次元の事柄だと考えている。救われたかどうかは人が口に出来る事柄ではないのだと思う。マーラーが救われたかどうかは私には解らない。
例えば、信仰を持った者が自殺した場合、その人が救われたかどうかということは私たちが言及できる次元を超えていると思われる。しかし、その信仰者の後に続いて行くべきか否かは吟味する必要があると思っている。

この問題は、継続してこれからも考え続けていく私の課題となるように思う。