風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『料理と科学のおいしい出会い』石川伸一=著(化学同人)

石川伸一=著『料理と科学のおいしい出会い』(化学同人

先ず、「おわりに」から引用。

 私は、分子レベルの食品学と栄養学を専門としていますが、分子レベルの料理の「ガストロノミー(美食学)」の研究をずっと趣味的に行っていました。趣味的だったのは、美食がグルメを想像させ、贅沢とか金持ちの道楽のようないわば“負い目”を感じていたからです。しかし、震災後、おいしい食べもの、おいしい料理を研究することは、けっして贅沢や道楽などではなく、人間が人間らしくやさしく生きるのにきわめて大切であることを身をもって学びました。その点で、私の「ガストロノミー」という言葉への感じ方が、3・11前後で変わったといえます。
 また、東京電力福島第一原発の事故で、科学の社会的責任が問われました。震災時、私は食の研究者でありながら、それまでの自分の研究が何の役にも立ちませんでした。災害時に心身とも弱った方や高齢者の方、これからの未来を担う子供たちにどのようなおいしい料理や飽きのこない食事を用意すればよいか、研究する必要性を感じています。
(石川伸一=著『料理と科学のおいしい出会い』(化学同人)より)

この本は、著者のユーモアが感じられて初めから面白く読めるんだけど、先ず、この「おわりに」の言葉に打たれた。この方は、福島県出身のようだ。


まだ全部読んではいないのだけれど、この中には建築をどんぶりに譬えて語った建築家についての次のようなコラムもある。

 建築家で東京大学工学部教授の隈研吾さんが、ある雑誌のインタビュー記事内で「どんぶり建築論」を展開されており、その内容が大変興味深いものでした。
 どんぶりは、どんぶり鉢の中でご飯に何らかのおかずを載せて完成します。ご飯と具を合わせる際、カツ丼であれば、カツとご飯という二つの“異種”をつなぐ「媒体」が重要で、卵がその役割を担っています。卵がご飯とカツをうまくジョイントしているため、両者はどんぶり内で違和感なく存在し、余計なことを考えずにかき込めるのです。この媒体を使ってつなぐ作業が、建築設計上で材料を決定する作業とよく似ていると隈さんはいいます。・・。
 実際、隈さんがデザインした那珂川町馬頭広重美術館には、細い杉材が使われていますが、その素材は、周りの細い枝に囲まれている繊細な風景と調和する、馴染むものが選ばれています。つまり、“環境”という大きなどんぶり内で、それに適した材料を使うことによって、光を調節し、周りの景色とうまく調和されているのが広重美術館であるといえるでしょう。「建築論のエッセンスがどんぶりにある」という実におもしろい発想です。
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 ちなみに、なぜ「どんぶり建築論」なのでしょうか。隈さんがどんぶりを選ばれた理由がまた私にとって実に腑に落ちる内容でした。
 どんぶりを食べるときの脳は、“クライマーズ・ハイ”と同じような状態の脳波となっていて、かき込んで我を忘れるときがあるようです。どんぶり以外にもお茶漬けなどをかき込んで、無我の境地に至ったことが一度や二度はある人も多いのではないでしょうか。・・。「建築は眼で見るもの」と考えられがちですが、建築に接することは、「物質を体内に取り込むプロセス」で考えなくてはならないと隈さんは話しています。今の建築は頭で考えることを強要しすぎる傾向があるので、「一心不乱にどんぶりを食べる状況のように建築を身体に取り込んでほしい」ということが、どんぶり建築論のネーミングの由来とのことです。
(『料理と科学のおいしい出会い』より)

又、以下のようなことも書かれている。というか、こちらの方が本論だが・・。

 フランスでは昔から卵の泡立てに「銅製のボウル」が使われていました。この銅ボウルでメレンゲをつくると、ステンレス製のボウルでつくったものと比べてツヤツヤになることが経験的に知られていました。このメカニズムを調べた結果、銅鍋からしみ出る銅が卵白タンパク質と結合することで泡の安定性を向上させていることが明らかとなっています。(『料理と科学のおいしい出会い』より)
いや〜、この本、相当面白い!それに、ブタさんのイラストもかわいい。


 先日、埼玉県立近代美術館で開催されている「戦後日本住宅伝説−挑発する家・内省する家」に足を運んだ。・・彫刻と建築の違いは何かといった趣旨の問いに対して、ある建築家が「内部があることである」と答えたと書かれていた。そして、「住宅に注がれる建築家の眼差しは、その内部空間をどう構成するかという点に収斂されていくといっても過言ではない」と続いていた。・・。
 建築に空間が存在するように、巡礼においても空間は存在すると私は思っている。巡礼路、それ自体が千年以上も続く道空間として存在している事実を私は受け止めている。仮に巡礼路という道空間を建築における外部空間とするならば、内部空間はそれぞれの巡礼者の心の中に存在するのではないかと私は思う。同じ土地であっても建築家が違えば生まれる建築は異なり、内部の空間もまた異なる。同じ巡礼路であっても巡礼者の心の中にはそれぞれ異なった空間があるのではないだろうか。そして私は心の中にどのような内部空間をつくったのだろうか。展覧会を見終え、この原稿を書きながらそんなことを考えている。(「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km 第6話」より抜粋引用)