をはりがある方がいいと言ひし友よ君は終はつてどこにゐるのか
大島末男=著『ティリッヒ』(清水書院)の中で、ティリッヒの「存在の根底としての神」にハイデガーの「根源的存在」が呼応するとして解説がなされているのだけれど、私は、ハイデガーの「根源的存在」をなかなか理解できないでいた。
昨日、以下のブログを読んでいて、「根源的存在」とはこういうものを言っているのだろうかと、ふと思ったのだった。
● 今、学ぶべきことは何か?
古代中国の思想家、荘周は、混沌(カオス)について次のように語った。南の帝である儵(しゅく)と、北の帝である忽(こつ)が、中央の帝である渾沌(こんとん)にもてなされ、そのお礼に、目鼻口がない混沌に、目とか鼻とか口とか 7つの穴をあけていったら、七日目に混沌は死んでしまったと。儵や忽は、微細とか瞬時という意味で、分別智のことらしい。
混沌というものは、純一無雑、そのまま完成態のもので、分析を許さざるものであるという教えがそこにある。 自然(世界)という分析を許さざるカオスを、どのように捉え、どのように対応するか。(抜粋引用)
さらにハイデガーが語っているらしい「われわれが日常経験する最も直接的な形は、自己自身に対して無関心な生き方である」(『ティリッヒ』より)という言葉の意味する生き方が、終わりの日が来る(死すべき存在である)ことを忘れて日々を忙しさに紛れて生きる生き方に等しく、聖書が語る「目覚めて生きる」ということがハイデガーの言う「存在の意味を問うて生きる生き方」に呼応するだろうかと、今朝、礼拝説教を聞きながら思ったのだった。
腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。(ルカによる福音書12:35~40)