古い家庭礼拝暦を捨てようと思い、中を見返していると、数年前に急逝された先生の良かったと思ったお説教が載っていたのだった。
列王記下5章1~8節
少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」(3節)
それは昔アラム人がイスラエルに攻めてきた時に捕虜になってしまった少女の話であります。そこには悲しい歴史がありました。悲しい歴史を背負いながらも、そして敵の中にいながらも、その少女は隣人が癒されることを願うのであります。
わたしたちは生きていく中で、様々な戦いに直面するものであります。そして様々な戦いから、様々な悲しい現実が生じてくるのであります。わたしたちは誰もが、悲しい歴史を背負う者であるかもしれません。
しかしまた、わたしたちが何よりも戦わなければならないのは、隣人愛に生きることができない自分自身であるかもしれません。捕虜となって生きていく現実の中にも、そこには何よりも尊い勝利があるようにも思われます。
神の民としての勝利とは、どのようなことでしょうか。それは悲しい歴史を背負いながらも、愛に生きることであるかもしれません。
私はここを読んで、ローズマリ・サトクリフの『ともしびをかかげて』を思い浮かべた。
列王記5章15~19節
「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」(15節)
ナアマンは、イスラエルの敵の軍隊の司令官でありました。そのナアマンがイスラエルの神を知るようになったのでありました。自分の主君が行くリモンの神殿にはひれ伏すべき対象は存在しないことを知るのであります。それが分かっていても、彼は自分の国へ帰れば主君に付き合ってリモンの神殿でひれ伏さなければならないのであります。心ではイスラエルの神を信じながら、偶像崇拝の国の現実の中で生きていかなければならないのであります。
それは、あのイスラエルから連れて行かれてしまった一人の捕虜の少女と同じになるということでもあります。わたしたちは、歴史に名前を残すこともなかった、あの小さな捕虜の少女を忘れることはできません。どんなに辛い境遇にあっても信仰を失ってはなりません。混沌とした人間の歴史の中で、どんなに小さな存在であっても、そこからまた誰かが神様を知る物語がはじまるのであります。