風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

ヨブ記(神の考えと人の考え)ー転換点に立つ物語と、ちょこっと『カラマーゾフ』

ヨブ記の構成は、ヨブに起こった出来事を述べる物語の部分(散文形式)とヨブと友人らの長い独白的対話(韻文形式)の部分の2つからなり、その2つの部分には思想内容に食い違いが存在することから、これらは、元来、別々に存在していた2つの資料であると思われる。本書の難しさは、義人の故なき苦しみというテーマの難解さだけでなく、そのテキストの語彙が普通の聖書ヘブライ語と異なるからである。そのため現在のヨブ記アラム語からの翻訳という説も存在する。一般的にユダヤ教のラビの伝統において、ヨブ記は歴史物語の一つと理解される。しかし、ある賢者たちは「ヨブは存在せず、創造されもしなかった」と断言して[ババ・バトラ 14b]、ヨブ記をフィクション(「比喩」)と理解することで、難解なヨブ記の解釈を試みる。(『岩波キリスト教辞典』より抜粋)

ヨブ記というのは聖書に記されたものの中でも何かと取り沙汰されるものではないだろうか。私もここでヨブ記について少しだけ書いてみようと思う。「少しだけ」というのは、一人の人間が聖書を解釈し切る等ということはあり得ないと思うからなのだが・・。

ヨブは、神の民イスラエルに属する者ではない。イスラエルから見れば異邦の民である。けれど、そのひととなりは「全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」と記されている。しかしサタンは神に向かって、「ヨブの信仰は神によって恵まれ守られているからだ」、と言う。この進言は、つまり、「ヨブはあなた(神)を御利益宗教の神と同じレベルで信じているのです」と言っているのだ。サタンのこの言葉は一見とても説得力があるように思える。裕福で恵まれているから信じることができるのだ(お金があるから貧しい人に施しができるのだ、自分が幸福だから人を愛する余裕があるのだ等々)、と。だけど本当にそうだろうか。(日本の)キリスト教に限って私が感じるのは、この世的に幸福で富んでいる人々の方が神を求めて入信しているとはとても思えないということなのだ。むしろ恵まれない者が神を求めて信仰に入ることの方が多いのではないだろうか。私自身、欠けのある環境にいたから完全なる者を求めた。教会に足を踏み入れたのは裕福で恵まれていたからでは全くないのだ。イエス「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイによる福音書19:24)と語っている。
ともかく、神が「そんな御利益宗教の神と同じにされるのは心外だ」と言ったとは書かれていないのだが、このサタンの進言を受けてヨブの苦難が始まるわけである。ヨブ記というと、「義人の苦難の意味」ということが問われるが、「サタンのいいなりになって神様が・・なんてあんまりだ」と言えなくもない。けれど、人間は神の考えにははるかに思い及ばないのだから、こういう形で描く他はなかったのではないかと思うのである。


ここで書こうとしている中心的なところにいく前に、ヨブの妻についても考えてみたいと思う。
聖書には、ヨブの妻はサタン並みの酷さで描かれているが、最終章で神の怒りを受けるヨブの友人達とは違って、妻は叱られることもなかった。
ヨブの妻がヨブに向かって言ったのは、「神をのろって死になさい」ということである。普通は、「死になさい」という言葉の方に「酷い」と反応すると思うが、ここで問題になるのは「神をのろって」の方だろう。なぜなら、「神を呪え」というのは正しくサタンの言葉であるからだ。けれど、私がヨブの妻であっても同じことを言っただろう、と思う。
物語や民話というのは簡潔に語り伝えられることが多い。簡潔に語られるものの中に多くの内容を汲み取って人は語り継ぐのだと思う。だから、この妻の言葉も、「時にその妻は彼に言った、『あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい』」(ヨブ記2:9)としか記されてはいない。しかし私が妻なら、これに加えてこうも言うだろう。「死んだあの子達は、私が産んだのだ。私が命がけで産んだ子ども達なのだ」「それなのにあなたは、『主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』(ヨブ記1:21)等とここに至っても格好をつけて勝手なことを言っている。神を呪って、あなたこそ死ねばいい」、と。
人間は何か事が起こると命がけで対応しなければならないという場合があると思うが、女の愛は、根本的に「命がけ」という構造の中に組み込まれているのである。

ここまで書いて私は、井上荒野氏の『キャベツ炒めに捧ぐ』を思い浮かべた。前にブログでも書いたが、この中に登場する郁子という女性は、「明日の朝いちばんに病院に連れていけば大丈夫だ」と言った夫のせいで息子は死んだのだと、夫が死ぬまで憎んできた人物として描かれている。この郁子の回想に次のような場面が描かれている。

 …。俊介はたまったものではなかっただろう。いつも黙り込むだけだったが、いちどだけ腹に据えかねたのか「別れようか」と言われたことがあった。
 別れようか。俺と一緒にいることが、そんなにつらいのなら・・・・。
 いやよ。郁子は即座にそう答えた。とうとう夫がその言葉を言ったということに戦きながら、でもその衝撃を悟られまいと虚勢を張って。
 あなたは逃げるつもりなのね?そんなの許さない。わたしは絶対に別れない。
 震える声を抑えながら、そう言った。それは本心でもあった。息子の死、息子の記憶にひとりでなんかとうてい耐えきれるはずがなかった。だから昨年、俊介が死んでしまったときは、怒りがあった。とうとう逃げたのね、と感じた。怒りは悲しみよりも大きいようで、どうしていいかわからなかった。

 郁子はビールを飲み干すと、息子の写真を見、それから夫の写真を見た。キュウリの馬は、それぞれにちゃんと一頭ずつ作ったのだった。帰りの牛がないけれど、べつに帰らなくたっていいわよねぇ、と思う。馬に乗ってきて、そのままずっとわたしのそばにいればいい。
 写真の俊介が苦笑したように見えた。亡くなる少し前、友人夫婦と山へ行ったときのスナップ。会話しながら笑っている顔。いかにも愉しげなゆったりとした表情をしているが、あとから友人にあれはあなたと喋っているときよと教えられた。嘘だわと思い、本当かしらとも思った。(井上荒野=作『キャベツ炒めに捧ぐ』(ハルキ文庫)より)

娘を産んだ後、初めて髪を切りに行った時、夫が、泣き止まない娘にりんごジュースを与えたということがあった。家に帰って、それを聞いた時、私は「どうしてそんなものを飲ませたの」と夫を詰ったのだった。私がその時酷く詰ったのは、りんごジュースなんか飲ませて下痢でも起こして脱水状態に陥れば一晩で死んでしまうかも知れないと恐怖したからだった。娘は全然大丈夫だったから、今では私の心配性を笑うための笑い話の一つにできるのだが、一歩間違えばこんなことはどこででも起こりうることだということだ。

『キャベツ炒めに捧ぐ』は、さも手軽に読めそうなタイトルがつけられているが、書かれている内容は凄まじく重い。最後まで何も解決はされていない。けれど、最後まで別れなかったという設定の故に光明が見える仕組みになっている。

ヨブ記でも、妻の言葉はヨブとの間に深い亀裂を生んだだろう。けれど、妻はそれでもヨブの傍を離れなかったのである。それ故、終章で「彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、…。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた」(ヨブ記42:13~16)と記されているのである。ヨブの妻は、その後もヨブを命がけで愛したのだ。
この最終章には、イエス・キリストの「愛せよ」との命令が明示されているのであり、天地創造の「生めよ、ふえよ」という神の祝福が照射されているのだ、と私は考える。


主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。(中略)
また、もしわたしがその国に疫病を送り、わたしの怒りをその上に血と共に注ぎ、そこから人も家畜も絶ち滅ぼすなら、たとえ、その中にノア、ダニエル、ヨブがいたとしても 彼らは自分の息子、娘たちすら救うことができない。彼らはその正しさによって、自分自身の命を救いうるだけである。(エゼキエル書14:12,20)

さて、『岩波キリスト教辞典』に記されているように、ヨブ記のほとんどはヨブと友人達の対話の部分で占められている。

エリフが登場する32章からの部分は、ヨブ記本来のものではないという説があるようだ。そのためか終章で神から怒りを受ける友人達の中に数えられていない。私にはそれは本来のものではないからどうだという判断はできないのだが、エリフの語っていることも、最初の三人の友人達が語っていることもそれほど間違ったことを語っているようには思えないのである。
むしろ37章以降のエリフの言葉は、その直後に現れる神の言葉に呼応しているとさえ思われる。「神はその驚くべき声をもって鳴り渡り、われわれの悟りえない大いなる事を行われる。彼は雪に向かって『地に降れ』と命じ、夕立および雨に向かって『強く降れ』と命じられる」(ヨブ記37:5~6)これは、「あなたは雪の倉にはいったことがあるか。ひょうの倉を見たことがあるか。これらは悩みの時のため、いくさと戦いの日のため、わたしがたくわえて置いたものだ」(ヨブ記38:22~23)に呼応している。また15節、16節で繰り返される「あなたは知っているか」というエリフの言葉は、ヨブを問い詰める時の神の言葉に対応していると思える。

そして、「彼はすべての人の手を封じられる。これはすべての人にみわざを知らせるためである」(ヨブ記37:7)ーこれは、ローマ人への手紙11章30節以下のパウロの神学に反映されていると思われる。

あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。
 「だれが、主の心を知っていたか。
 だれが、主の計画にあずかったか。
 また、だれが、まず主に与えて、
 その報いを受けるであろうか」。
 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。(ローマ人への手紙11:30~36)


最初の三人の友人の言葉も見てみよう。例えば、5章でテマンびとエリパズが語っている言葉などは、旧約の詩編箴言のみならず、新約のヘブル人への手紙やヨハネ黙示録でさえ言われていることである。特にヘブル人への手紙ではヨブ記から引用したのではないかとさえ思えるのである。

見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。(ヨブ記5:17)
また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。(ヘブル12:5~6)
すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。(ヨハネ黙示録3:19)

また、二度ほど語られる「人は神の前に正しくありえようか」という言葉なども、「その通りだ」と言えよう。

「あなたの罪は、はてしがない」(ヨブ記22:5)。これもある意味「そうだ」と言える。

ただ、8章でシュヒびとビルダデが語る「神は公義を曲げられるであろうか。全能者は正義を曲げられるであろうか」に続く、「あなたの子たちが彼に罪を犯したので、彼らをそのとがの手に渡されたのだ」(ヨブ記8:4)というのは違っているだろう。罪というのは、どんなに無垢の生まれたばかりの子どもでも罪を抱えて生まれてくるのだということは聖書が語っていることである。しかし、ヨブ記では、ヨブの子らが罪を犯したために死んだのではなかった。ヨブの子らが死んだのは、神がヨブをサタンの手に渡したからなのだ。つまり友人達が教義上どんなに正しいことを語ったとしても、ここでの神の考えとは違っていたということである。だから終章で友人達は神から怒りを受けるのだ。

すべての人間は生まれながらに罪を抱えている、これは正しい。「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙3:10)、これも聖書が語っていることである。けれど、ヨブ記において神が伝えようとしている事柄はそういったことではないのだ。

ヨブ記は、それまでに与えられていた教義では捉えきれない物語だと言える。謂わば、転換点に立つ物語なのである。ヨブがイスラエルの民ではなく異邦の民であるということがここで大きく関わってくるように思われる。神の救いは拡がっていくのだ。

以前、ヨブ記に関連してブログに書いたものがあったので以下に再掲しておく。

ヨブの友人達は、ヨブが災難に遭って苦しんでいると聞いて慰めるためにやって来たのだ。そして七日七夜ヨブと共に地に座していたのだが、ヨブの嘆きに堪えられずに口を開き始めたのだった。苦しんでいる者の傍らにあって黙ってその嘆きを聴き続けることがいかに難しいかを思わされる。友人達は堪えきれず語り始めたのであるが、その言葉はヨブを慰めるよりむしろ責めるものとなってしまう。けれど、語っている内容が間違っているわけではない。大方は正しいことを語っているのである。けれど私達の正しい言葉は、相手に対して反論の余地を与えず、決して苦しんでいる者を慰めることがないように思われる。http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20131110/p1

最終章で、神はヨブに、友人達のために執り成しの祈りを捧げるようにお命じになる。ヨブはキリストの予型だと言われるが、私は、この執り成しの祈りを捧げるところにキリストの予型としてのヨブが顕されているのではないかと思う。

私は以前、『カラマーゾフの兄弟』の中で、「アリョーシャはキリストのひな型として描かれているのではないか」と書いたことがあるが、「予型」と「ひな型」は明らかに違う。先ず、キリストが来られる前と後という位置する場が違っている。「予型」はもちろんキリストが来られる前に位置し、キリストを指し示す役割を持っている。「予型」とされる者は、それほど多くはないだろう。「ひな型」はキリストが来られた後のものであり、キリストの模型である。言ってみればキリストに従う者は皆、キリストの「ひな型」となるのである。神体験において、キリスト者はキリストの受肉から十字架上で神によって見捨てられる体験まで、キリストの「ひな型」として体験するのではないだろうか。
私は、ドストエフスキーの五大作品といわれるものを『カラマーゾフの兄弟』以外読んでいないので言い切ることはできないのだが、他の作品の中でドストエフスキーはキリストを描こうとしたのではないか、と思う。けれど、『カラマーゾフの兄弟』の中にキリストのような人物は登場しない。アリョーシャは一つのひな型なのである。模型にすぎない。この違いは大きいだろうと思われる。私が他の作品を読む気にならないのもこの点に関わってなのである。ドストエフスキーピカソまではいかないかも知れないが、それまでの自分の作品を打ち壊して前に進もうとした作家なのではないか、と私は思う。それらのことから考えても、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ・・」というヨハネ福音書の言葉が『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に掲げられている意味は大きいと思われる。もしかしたらキリストを描こうとして描ききれなかったということかも知れないが・・。私には、そういう意味でもマルケスドストエフスキーを超えていると思えるのである。


友人のために執り成し祈るというのは、なんと美しい行為だろうか。神は「執り成し祈れ」という美しい命令をヨブに下されたのである。これは大いなる恵である。けれどこれは、キリストのひな型として生きる私たちにも与えられている恵なのである。

世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。(箴言18:24)

参考書籍:J.C.L.ギブソン=著『ヨブ記』(新教出版社私はこれを全て読んではいないのだが、ヨブが異邦の民であるということと、エリフが登場する場面は本来のヨブ記にないということが、ここには書かれている。

 ● クーンの「科学革命論(パラダイム論)」
トーマス・クーンは『科学革命の構造』で、「パラダイム」という概念を提示し、科学の進歩と革命の歴史的過程を明らかにして、科学業界に衝撃を与えた。…。
(中略)
トーマス・クーンは、この旧いパラダイム(科学理論)から新しいパラダイムへの移行期を「科学革命」の時代と呼んでいる。科学革命の時代には、通常科学の時代に蔓延した常識も、たとえば「実証性」とか「再現性」・・・というような科学主義的な「常識」も無力になり、通用しなくなる。(抜粋引用)

● 正義の蕩尽
 皆んな、びっくりするくらい「正しいことがしたい」。
 そのこと自体は、責められるものでもない。誰だって「正しく」ありたい。問題は、この「正義欲」に多くの人が無自覚なことだ。それがある種の欲、自分を支えるために必要な営みの一つだとわからず、正義そのものが自分の外に頑然とあると感じてしまう。…。
 わたしたちはある程度「正しく」ないと生きていけないが、無限に「正しい」必要はない。そんなに食べても太るだけだ。
 正しくないと生きていけない、というのは、社会的に抹殺される、とかいう意味ではなく、そうでなければ「人でいられない」ということだ。正気を保てない、ということだ。
 多くの人が指摘していることだけれど、昨今のSNSなどでは、例えばパクリ疑惑であるとか、いわゆるバカッター的なものとかに、直接の当事者でない人々が群がってフルボッコにする現象が見られる。…。

(大幅に、中略)

 こういう人たちを眺めていると、人は本当に「良いこと」をしたいのだなぁ、と思い知らされる。
 当然ながら、その「良いこと」が相手にとっても本当に良いことで、良い結果をもたらすかどうかはわからない。
(中略)その為にはとにかく「正義欲」を自覚することだ。
 自覚したからといって、すべてうまくいくとは限らないけれど、幾分抑制にはなるかと思う。
 正義というのは、本当に厄介なものなのだ。
 正義自体、ある種のブーストするツールであって、ブワーッと大衆を動員して巨大な力を生み出す一方、変な方向に走ると誰も得しないような世界に落ち込んでしまう。
 とはいえ、正義自体を廃絶することもできない。それはある種の「欲」なのだから、解脱でもしなければ抜け出せない。(抜粋引用)