風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

祈りについて、再び−「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」


 コンクへの道の途中、老婦人が手招きしている。少し休んでいけということだろうか。その好意に甘え、冷たいハーブティーを頂く。私は巡礼に行くことはできないけど、その代わりに巡礼者のために奉仕をしているのだと話してくれた。その後、小さな小屋に案内された。不思議に思って中に入ると、そこには手作りの小さなチャペルがあった。いや、チャペルとも言えないだろう。絨毯を敷き、正面の壁に十字架がかけてあるただの部屋なのだから。しかし、この小屋は老婦人が自分と巡礼者のためにつくり上げたチャペルである。何も立派な礼拝堂など無くても良い。祈るための空間はこれだけでも十分である。信仰とは祈ること。 ここには老婦人の祈りを信仰に昇華させるために十分な空間があった。(「El Camino」第3話より)
祈りというのは信仰を保つための生命線であると思うが、危機に瀕した時に先ず直撃されるのがこの「祈り」であるように思う。
呼吸に譬えれば、神の言葉を聴くことは「吸気」であろう。それならば、祈ることは「呼気」だと言える。危機に瀕して祈れなくなるということは、神を呼べなくなるということと等しいように思われる。


若い頃、夜の祈り会からの帰り道を一人の婦人と一緒に帰っていた。私が転会するのと、その方が洗礼を受けられた時期が同じだったので、祈り会への参加も同じ頃に始まったからだった。母と同じ世代のご婦人だったが、いつも楽しくおしゃべりしながら帰っていた。

5年ほど前に私がこちらに帰って来て、2年後、大きな水害があった。私が親しくしていたその婦人のご自宅も大きな被害に遭われた。水害の後その方は、「神様が私を罰された」と言って心を痛められた。私は、「礼拝にも祈り会にも通い続けて来たYさんを神様が罰したりするはずないでしょ」と心の中で思いながら、「そんなふうに思わない方がいい」としか言葉をかけることが出来なかった。その後Yさんは家の中が片付いて程なく礼拝には復帰されたが、祈り会にはなかなか戻って来られなかった。そんな頃に礼拝でハバクク書の講解説教が始まったのだった。

主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている。それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。(ハバクク書1:2~4)
このハバクク書の説教の中で、「私たちは、神に訴えて良いのだ」と語られた。信仰とは神の前にお利口さんを装って立つことではなく、窮状を抱えたまま神の前に進み出て、その苦しさを訴えて神を呼び求めることなのだ、と。
私は今の言葉をYさんは聴いただろうかと、いつものYさんの座席の辺りを探したのだった。その日の礼拝にYさんは来ておられた。そしてその週から祈り会にも復帰されたのだった。その祈り会からの帰り際、Yさんは、「私、洗礼を受けていて良かったと思う」と言って帰られたという。

昨年の春、Yさんは突然神様の元に召された。ちょうど水曜日の午後、いつものように祈り会へと出掛けようとしたところを、神様は祈り会を通り越してYさんをご自分の元へとお召しになった。Yさんが倒れていた玄関土間に聖書と讃美歌の入った鞄が落ちていた。

前夜式が終わった後に、親しくされていた長老がこんな話をしてくださった。
ある人がYさんに「日曜日も水曜日も教会に行って、何をお祈りしているの?元気で長生きできるように祈ってるの?」と尋ねると、Yさんは「うぅん、長生きじゃなくてね、楽〜に神様の元に行けますようにって祈ってるの」と答えたそうだ、と。

このお話を聞いて、神様はYさんの祈りをきかれたのだ、と思った。そしてYさんのご夫君のことを思い起こした。晩年、ご夫君は筋萎縮性側索硬化症で車椅子の生活をなさっておられた。Yさんは昔、「私は頑なな人間で、車椅子を押して教会の前までは来るんだけど、そこから先は一人で行ってくださいって感じで・・、その私が洗礼を受けるなんて自分でも不思議!」と言っておられたのだった。Yさんはきっと、呼吸筋まで硬化して苦しい思いをされたご夫君に付き添って看護される中で、「自分は楽〜に神様の元に行きたい」と思われるようになったのではないかと思った。

Yさんが亡くなって、ゆっくり偲んでいる間もなく忙しく一年が過ぎてしまった。Yさんが亡くなった時、私はこんなふうに親しかった人を見送るために帰って来たのだろうかと恨めしかった。けれど今では、Yさんの死を通して、神が私たちの祈りに耳を傾け、願いを聞き上げてくださるのだということを心に覚えることができたことに感謝している。


しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカによる福音書22:32)
私たちの信仰は、このイエスの言葉によって支えられている。苦難の中で祈れなくなる時、イエス・キリストが私のために祈っていてくださるのだという、このことをしっかりと心に刻みつけて、御言葉に聴き続けていきたいと思うものだ。


 Aubracの町に着いた。町にはかつての救護所跡に、付属の礼拝堂だけが残っていた。がらんとした内部だが、そこにはかつて病気になったり、怪我をした数えきれないほどの巡礼者たちが神に救いを求め、祈りを捧げた空間があった。やはり空間の質が他の多くの礼拝堂とは異なる感じを受ける。黒く粗い石。素材が生み出す空間の力を強く感じた。(「El Camino」第3話より)