風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

野口裕二=著『物語としてのケア』から「祈り」について考える


「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」第4話
 モワサックへ向かう途中に小さな教会があった。極限まで無駄を削ぎ落とした空間には静謐さが漂う。その場に座り、目を閉じる。祈ることは神と向き合うことだが、自分と向き合うこととも言えるだろう。この孤独な空間の静寂さが自分の心の深層まで探求させてくれた。(抜粋)


『物語としてのケア ナラティヴ・アプローチの世界へ』野口裕二=著(医学書院)



 「ナラティヴ」とは、「物語」「語り」を意味する言葉だという。「言葉」、「物語」、「語り」についての考察が興味深い。「言葉は世界をつくり、状態を識別する」という。私たちは「言葉をたよりに現実を認識し、自分の生きる世界を構成している」というのだ。そして、自己とは「自己語り」によって作り直されていくのだという。しかし、自己を語る時、この語りを確かに聞き届けてくれる人の存在が必要なのだ。
 この本では、カウンセリングの臨床現場での3つのナラティヴ・アプローチが紹介されている。ナラティヴ・アプローチに共通する最も重要な点は、語り手の語りを途中で遮らず聞き届けるということのようだ。しかし、肯定も否定も、指図もせず、最後まで黙って聞くということは、私達、ごく一般の人間には至難のわざであろうと思う。そして私たちは、問題を抱えてカウンセラーの元を訪れるのでない限り、生活の中で、このようなアプローチを受けることはないだろうと思われる。けれど、私にはこのような場が一つだけ与えられている。教会での祈りの場だ(私にはキリスト教の教会以外での祈りの体験がないので、このように限定するが)。

 祈りの場には、この本で紹介されている3つのアプローチの要素が全て備わっていると思う。

 長く祈りの場に集い続けていると、不思議な感覚を体験することがある。日常の生活の中で一つの具体的な問題を抱えて祈り会に臨み、「今日はこの事を是非とも祈らなくては」と思っていたはずなのに、説教者から聖書の話を聞いているうちに解決されてしまったような気がして、別の祈りを祈ったというようなことだ。これは、この本に書かれている「問題に振り回されていた自己が、問題を外在化して新しい別の[語り]を語った」ということと等しいように思われる。

 教会によっては、短く祈ることを指導されたり、祈りの課題というのが提示されるところもあるかもしれない。が、祈りを誰かに否定されたり、変えられたりすることはないし、あってはならない。又、祈り会では、特別な一人の人間だけが祈るということはない。交代で一人一人が神に向かって祈る。これは、神に向かって一人一人が自己を語るということと等しいのではないだろうか。神に向かって「自己語り」をしながら、私たちは罪を抱えた自己を認識する。そしてさらに、罪を抱えているにも関わらず神によって愛されている自己を、祈りの度ごとに、新たに認識し直していくのである。

 キリスト教会の祈り会では、一人の祈りが終わるごとに皆が「アーメン」を唱和する。この「アーメン」という言葉は、「まことに」とか「たしかに」と訳されるようだ。祈りの中では、「私も、あなたの祈りに合わせて同じ祈りを真心から捧げる」というような意味合いになるだろうか。互いの祈りの言葉を最後まで聞き届け「アーメン」を贈り合うわけだが、この祈りの群れの中にいるのは人だけではなく、神がその中心に臨在し給い、一人一人の祈り([語り])を完全に聞き届けていて下さる。

 「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイによる福音書18:19,20)
 最後に、「語り」のない場について考えたいと思う。鬱病が重くなっていく時、語ることすら出来なくなるという。また、まだ大人と等しい言葉を持たない乳幼児の場合はどうだろうか。「語り」のないところでは、ナラティヴ・アプローチの可能性が断たれているかのように思われる。しかし、「傍らに居ること」、その中にナラティヴへの可能性が開かれているということを本書の引用から示して、終わりたい。

 「ラップ人は、・・。彼らの伝統では、ある家族に突然不幸が訪れ誰かが亡くなったりすると、その親戚一同がやって来て、何を言うともなくそこにただ一緒にすわっている。・・。悩みをもつ人の呼吸を肌で感じ、その無言の言葉を聞きとる作業こそ、われわれ臨床家のできる最大の貢献ではないだろうか」(『物語としてのケア』より)


 そしてル・ピュイの中でも特に印象的なのがそびえ立つ岩山の上に建つサンタ・マリア・デギュイユ教会。なぜ、わざわざこんな場所に礼拝堂をつくったのだろう。
                 ・
 内部に入ると洞窟のような小さな空間ながらも濃密な祈りの空間がそこにはあった。小さく穿たれた開口からの光はわずかである。この礼拝堂の空間には祈るという行為を誘発させる何か特別な力がある。建築とは空間をつくること。空間によって人々の行為を誘発させる力を持っていることが強く感じさせられたのであった。(「El Camino」第1話より)

 途中、丘の上に建つSaint-Roch教会のミサに出席した。今日はちょうど日曜日である。とても小さな教会なので、礼拝堂に全員は入らない。それでもわざわざ、車でこの小さな教会での礼拝を守るためにやってくる人がたくさんいる。そのため階段広場で青空のもとミサが行われた。何だかとても原始的である。これが礼拝の原初であり、本来の意味がここにあるような気がした。キリストの教えを伝える人とそれを聞く人。それらの人々がいれば、建物などなくとも そこは教会である。そういった物事の本質を感じた瞬間であった。(「El Camino」第2話より)

また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―
わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである(イザヤ書56:6~7)