風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである(ヨハネの第一の手紙3:16~4:2より)

主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。(ヨハネの第一の手紙3:16)
ペンテコステの前の祈り会で、「わたしたちも命を捨てるべきだというこの言葉は強烈です。私たちは、命を捨てるなどということはとても出来ないと思ってしまいます」と語られた。けれど続けて、「命を捨てることは出来ないけれど、例えば、病気の家族の看護をする場合など、私たちは自分の時間を割きます。自分のためにでなく誰かのために自分の時間を割くこと、これなども一つの愛の形であると言えます」と聴いた。

私はこの言葉を、ドストエフスキーに聞かせてやりたかった。

私達には命を捨てるほどの愛は示せないかもしれない。けれど、限界を抱えながら愛そうとする時、その行為は愛の行為として認められるのだ、と。
キリストが肉体という限界を持ってこの世に来てくださり、愛することの出来ない私達の苦しみを味わい尽くしてくださり、そして命を捨ててくださった、それによってこの世界に愛が取り戻されたのだ、と。
愛せなさに苦しむ私達の世界に、キリストが愛を回復してくださったのだ、と。

あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、(ヨハネの第一の手紙4:2)



ふたつの焦点、「然り」と「否」−神学的弁証法の意味するところは、どれだけ概念を用いたところで私たちは真理と現実に近づくことができるだけである、ということである。もう一度繰り返すが、現実を理解できるのは、真理が私たちを征服するときだけ、神が私たちのところまで降りてくるときだけなのである。聖書の弁証法の中心はキリストの救済の業においてよく理解することができる。・・。
救われていることを確信していても、自分は罪人にすぎないと戒める意識を、人間は決して失ってはならない。信仰を持っていたとしても、常に、主よ、私の不信仰をお助けください、と訴えなければならない。どのような体系もいかなる論理も現実をうまく表現しない。私たちが発するいかなる言葉も、別の言葉、そう、対立する言葉を伴わなければならない。・・。神を征服することはできない。神は面と向かって私たちの前に居合わせるわけではない。信仰とは実際には非常に正しい弁証法的な表現である。

フロマートカ=著『神学入門−プロテスタント神学の転換点』(新教出版社)より


その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。(マルコによる福音書9:24)


● マスメディアは信用できないから
昨日はJR新宿駅南口で「集団的自衛権行使反対」の意思表示をして60歳ほどの男性がガソリンをかぶって焼身自殺を図った。その行為自体は決してよいとはいえないけれども、<戦争放棄>という日本国憲法の三大原理の一つを閣議決定という国民の手の届かず、政府にとってはお手軽な方法で変えてしまい、米国と官界と財界の意向にしたがって、日本を戦争にひきずりこもうとする卑劣なやり方に、生命を賭して反対意志を表明する人がいるということは、国民が知るべき重大な事実であることにまちがいない。世界中で報道されていて、さすがに民放はこれを報道したが、NHKはこれを黙殺した。