風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

上田薫=著『林間抄残光』と上田薫=編『西田幾多郎歌集』

その辻に人消えしまま春夕べ

どこか暗い花をくぐれば海への道

  悲しみはより深い悲しみのなかで癒される

夏原の色やや褪めて海の音

ほめし亡くほめられしも亡く夏の墓
  (上田薫=著『林間抄残光』(黎明書房)より)

俳句を作ろうとする時に、自分の心情にぴったりあった言葉で表そうとすると、最初の五音が六音になることが多い気がする。そして下手をすれば最後の五音も六音にしたいと思うことがある。師匠は、「最後は五音でなくてはいけない。どうしても六音になる場合はそれを最初に持ってくるようにすると良い」と言っていた。けれど私は、上記の、「どこか暗い花をくぐれば海への道」が限りなく好きだ。

上田氏の句には、やはり哲学者西田幾多郎の血を思わせるものがあるように思う。俳句そのもので言えば、私は上田氏の句の方が好きだけれど・・。

短歌の良し悪しといったようなことは私には分からないが、西田の、子を喪った時の歌は胸に沁みて泣ける。

    六月長男謙病死
担架にて此道行きしその日より帰らぬものとなりにし我子
五十日あまり重き思を抱きつつ日々に通ひし病院の途
すこやかに二十三まで過し来て夢の如くに消え失せし彼
今も尚あらぬものとは思はれじかきし文字など懐かしきかな
月日ふれど死にしものとは思は[れ]ずありし昔の偲はるるかな
二十あまり三とせそだちてわづらひて夢の如くに消え失せし彼
    一月十九日
死にし子と夢に語れり冬の朝さめての後の物のさびしさ
死にし子の夢よりさめし東雲の窓ほの暗くみぞれするらし
梧桐の若葉蔭なる病室の日に薫る頃彼は逝きけり
妻も病み子等亦病みて我宿は夏草のみぞ生ひ繁りぬる

              (上田薫=編『西田幾多郎歌集』(岩波文庫)より)