風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

村上春樹『女のいない男たち』についての沼野充義氏の書評から

村上春樹小説にはいつもちらりと関心を持ちながら結局読む気にならず一冊も読んでいない。この『女のいない男たち』というタイトルを広告で見た時も、「『女のいない男』って・・?」とちらりと思ったが、読む気は全くなかった。そんなことを思っていたところに昨日、新聞に書評が載ったので、その書評を読んで勝手気ままに思い巡らしたことを書いてみようと思う。だからつまり、この文章は、村上春樹氏の小説についてではなく、村上春樹氏の小説『女のいない男たち』について書かれた沼野充義氏の書評を巡って書いたものということになる。

この書評のタイトルは「うかがい知れない男女の心へのまなざし」となっている。そして最後の段には「陳腐なまとめ方になってしまうが、これらの作品に共通しているのは、人が心の奥底で感じ、考えていることは、たとえ恋人どうしや夫婦であっても互いにうかがい知ることができないということだ」と書かれている。けれど、この短編集の表題は『女のいない男たち』である。だから、「人が心の奥底で感じ、考えていることは、・・互いにうかがい知ることができない」というのは間違いではないだろうか。「女が心の奥底で感じ、考えていることは、・・男にはうかがい知ることができない」が正しい、と思う。

ここから私は創世記の創造の場面を思い起こしたのである。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(創世記2:21~22)
聖書には、(口語訳では)女は男の「あばら骨の一つを取って」造られたと記されている。つまり、アダム(男の側)から見れば、自分の一部を取って全く別のものが造られたということであり、女の側から見れば、「あばら骨で・・造り上げられた」と書かれているから、女は男の一部を内包しているか、あるいは男の全てを持ちながら形を変えて造られたということになるのではないか、と思う。そして「あばら骨」である。胸の部分の骨である。胸とは心があると考えられる場所ではないだろうか(科学的には心は脳にあるようだが・・)。ここから推論しても、自分の一部を取って造られたにも関わらず全く別のものとして造られた女を男はうかがい知ることができないが、男を内包している(殊に男の心を内包している)女には男のことは見えていると言えるように思う。
このように考えると、この短編の中の『独立器官』というタイトルの中身が解せるのではないだろうか。『独立器官』というのは、裕福な医師として独身生活を楽しんでいた50代の男が16歳年下の人妻への恋に落ちるのだが、人妻は主人公も夫も捨てて別の若い男と駆け落ちしてしまったために、独身生活を楽しんでいた主人公の男は最後、痩せ衰えて死んでしまうという話らしいが、『独立器官』についての沼野氏の解釈を先ず引用してみる。

 「独立器官」という奇妙な表現が意味するのは、人は自分の力ではどうすることもできない「独立器官」によって、嘘をついて相手をだましもすれば、死に至る破滅的な恋もするということだ。
創世記2章23節には、神によって造られ、自分のところに連れて来られた女を見たアダムが「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と感嘆の声を発している。この聖書の箇所から思い巡らしても、「独立器官」は、「自分の力ではどうすることもできない」ものなどではなく、「女」そのものであることが分かるように思う。自分の骨から造られたものであるけれど、男にとって女は「独立した器官(あばら骨の一部)」なのである。その、元は一つであった独立したあばら骨の一部が自分の元へと連れて来られた時、アダムは本来の自分を取り戻せたのである。
男は、自分の「骨の骨、肉の肉」に出会ったならば、これこそ自分の「骨の骨」だとその場で宣言しなければならない。そうしないで、「独身生活を楽しみながら、あとくされのない女性たちと次々と関係を持っ」たりしていては破滅への道を突き進むことになるのである。

聖書には、女は、「人がひとりでいるのは良くない」(創世記2:18)と判断された神が男のために「ふさわしい助け手」として造られたということが記されている。このことから考えれば、女は「ふさわしい助け手」つまり「なくてはならない存在」として認識されている時に満たされる存在であると言えるのではないだろうか。このことは、『女のいない男たち』の中の、『ドライブ・マイ・カー』に登場する主人公の車の女性ドライバーや、シェエラザードの主人公のところに通ってくる女性にも当てはまる心理のように思われる。つまりそれは、男が「ふさわしい助け手」として女を認識しているかどうかにかかっているのである。そのことを認識せずに、「釣った魚に餌はやらぬ」とばかりに女をないがしろにしていると、いつの間にか「女のいない男」となってしまうということである(可笑しいのだが、笑えない話である)。

男性は自分の「骨の骨、肉の肉」に出会ったなら、「ふさわしい助け手=なくてはならない存在」としてしっかり認識しなくてはならない。そして全力をあげて、「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということを認めて、知識に従って妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬し」(1ペテロ3:7)なければならないのである。


けれど、聖書には次のような言葉もある。

母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい。(マタイ福音書19:12)

わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。(コリントの信徒への手紙一7:7)

次に、未婚者たちとやもめたちとに言うが、わたしのように、ひとりでおれば、それがいちばんよい。(コリント人への第一の手紙7:8)

上記写真は、2014年5月18日の毎日新聞書評欄
ところで、こういった新聞に掲載される書評というのは、新聞社から依頼されて書くのだろうけど、短時間で本読んで纏めなきゃいけないというのも厳しいものがあるな〜と思ってしまった。私など、書いてブログにアップしてからも何度も書き直してしまうというのに。しかも、何度か読んでもなかなか纏まらないで書けない本もあったりするし・・。それが自分にとって大事な本であればあるほどなかなか書けない。『コレラの時代の愛』について書きたいけど、書けない!


● 私たちが9条を失う時
(1) 9条を失うと、格差社会のなかで職にありつけない若者たちが自衛隊国防軍)に就職し、戦場で「敵」を殺し「敵」に殺されることになる
 米国ではベトナム戦争後、徴兵制はやめた。その代わり、20―30歳代の「ワーキングプア」を政策的につくりだすことによって、彼らを兵士としてリクルートしている。米国では軍隊が高校にリクルートにやって来て、軍隊に行けば退役後、奨学金や就職の世話をするといって宣伝している。しかも、その約束はしばしば空手形に終わる。戦死するか、戦死しなくても、戦地で心的外傷PTSDを負って人格が破壊され、ある人たちは自殺してしまうからである。
(3)9条を失うと、人道支援に出かけている医師・ボランティア・駐在員たちが信用を失い危険な目にあうことになる
「9条があるから、海外では、これまで絶対に、銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。具体的に、リアルに、何よりも物理的に、僕らを守ってくれているものを、なんで手放す必要があるんでしょうか。危険だと言われる地域で活動していると、その9条のありがたさを、つくづく感じるんです。日本は、その9条にのっとった行動をしてきた。だから、アフガンでも中東でも、いまでも親近感を持たれている。これを、外交の基礎にするべきだと、僕は強く思います。」(中村哲 アフガニスタンで、水源確保事業など、現地での支援活動を続ける中村医師の言葉)(リンク記事より抜粋引用)