風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「独立器官」(村上春樹=作『女のいない男たち』より)

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、…」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1:26,27)

村上春樹『女のいない男たち』(文春文庫)を買ってきて、「独立器官」を読んだ。そして、「小説というものは、書評であらすじを読んだだけでは味わうことの出来ないものだ」という基本的なことを理解した。
私は以前、書評を読んで『女のいない男たち』についてブログに書いた。その時は、創世記の2章21~23節の御言葉を取り上げて書いたのだが、「独立器官」そのものを読んで、この小説のテーマは冒頭に掲げた聖書の言葉に象徴されていると思った。

「われわれのかたちに、われわれにかたどって」の「われわれ」という言葉は、父、子、聖霊の三位一体の神を表していると考えられる。聖書の神は「一神教の神」と良く言われるが、一で完結しているというような単純な神ではない、と私は思う。三つが一つとして存在する神なのである。その神にかたどって造られたとは、一人一人でありながら共に生きるものとして造られた、ということを表している。人間は、神にかたどって、共に生きる者として造られたのである。


「独立器官」の中に次のような一節が記されている。
育ちが良く、高い専門教育を受け、生まれてから金銭的な苦労をほとんどしたことがない人間の多くがそうであるように、渡会医師は基本的には自分のことしか考えていなかった。にもかかわらず彼は、前にも述べたように、楽しく興味深く会話ができる相手だった。(『女のいない男たち』)

主人公の渡会医師は決して印象の悪い人物ではないのだ。しかし、「自分のことしか考えていなかった」のである。つまり、共に生きる関係から外れたところで生きている人間だったということだ。その渡会医師が恋におちる。50歳を過ぎて。

恋におちた主人公は「私とはいったいなにものなのだろう」と考え始める。
椎名麟三は、共に生きているものによって人は自己を規定されている、ということをエッセイの中で繰り返し書いている。「共に生きているものによって人は自己を規定されている」という言葉は、椎名麟三の書いたものをそのように私が解釈し表現した言葉ではあるが。

共に生きる関係から外れたところで自分のことだけを考えて問題なく生きていた渡会医師が恋におちて、「私とはいったいなにものなのだろう」と考え始めるのである。誰かと共に生きようとした時、美容整形外科医としての能力やキャリアも快適な生活環境も自己を規定するものとはもはや成り得ない。そこでは、共に生きようとする誰かだけが自己を規定し、生かしめるのである。しかしその、共に生きたいと願った相手は、夫も子供も、そして渡会をも捨てて他の男と暮らし始める。

「独立器官」について、渡会が語ったとされる言葉が記されている。
 すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、…。(中略)…、いちばん大事なところで嘘をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。(『女のいない男たち』)

この言葉の少し後に、この物語の語り手の次のような言葉もある。
 彼は間違ったボートに繫がれていたのだと、我々はあとになって思う。しかしそんなに簡単に言い切ってしまえることだろうか? 思うのだが、その女性が(おそらくは)独立した器官を用いて嘘をついていたのと同じように、もちろん意味あいはいくぶん違うにせよ、渡会医師もまた独立した器官を用いて恋をしていたのだ。(『女のいない男たち』)

ここで、俄に、創世記2章の言葉が浮上してくる。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2:21~24)

最期を看取った秘書の青年が、食を絶ち痩せ衰えた渡会の姿を「潮が引いた海岸の岩場のように、あばら骨が浮かびあがっていました。目を背けたくなるような姿でした」と語る場面がある。
やはり、この小説の土台には、創世記2章が置かれている、と思う。けれど、この小説はそれで終わってはいないのだ。


創世記1章の「神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とは、単に「男と女」を表しているのではない、と私は思う。ここで言う「男と女」とは、なくてはならない共に生きるという関係性を表しているのである。つまり、「神のかたちに創造し、共に生きる者、一人ではなく関係性の中に生きる者として創造された」ということを表していると思うのだ。村上氏はそのことをこの小説の中で描き出している、と思う。

物語の語り手であるジム仲間の谷村に、渡会は最期、未使用のスカッシュ・ラケットを遺す。そのラケットを携えて来た秘書の青年は、「ゲイ」という設定になっている。しかしその青年は秘書という職務の範囲を超えて親身に渡会を看取るのである。そして谷村に、「どうか渡会先生のことをいつまでも覚えていてあげて下さい」と頼むのだ。この最後には、男女を超えて、共に生きようとする人々の姿が描かれていると思わされる。

 自ら選んだ死の間際に渡会が何を考え、思いなしていたのか、もちろん知るすべもない。しかしその深い苦悩と苦痛の中にあっても、たとえ一時的にではあるにせよ、僕に未使用のスカッシュ・ラケットを遺すことを伝えるだけの意識は戻せたようだ。あるいは彼は何かしらのメッセージをそれに託したのかもしれない。自分がなにものであるか、末期近くになって彼には答えらしきものが見えてきたのかもしれない。そして渡会医師はそのことを僕に伝えたかったのかもしれない。そういう気もする。(村上春樹=作『女のいない男たち』(文春文庫)より)


書評を読んで終わりにせずに、小説そのものを読んで本当に良かった、としみじみ思わされた作品であった。

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