風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『病める心の記録』から考えるマルコによる福音書7章25節から30節

 カズオやミツコが来る時にはよく本を持って来てくれる。(略)
 ある日、北原白秋という詩人の「雀の生活」と、聖書を持って来てくれた。玄光寺の和尚さんがぼくに読むようにとのことで、どこでも開いて、ぱらぱらと読んでごらん、とのことであった。和尚さんと聖書って妙なとりあわせね、とミツコは笑った。古い古いよごれた本、しかし不思議な本で、それを読んでいると、ぼくは雀になった。その時聖書を開いた。マルコ伝七章、ある女が気が違った小さな娘をなおしてくれと頼む。イエスは、子供に十分食べさせ、子供の食物をテーブルの下の小犬に投げてやってはいけない、という。女はテーブルの下の小犬も子供の食べ屑を食べるのです、という。イエスは、お前のこの言葉で子供はなおった、という。ぼくは雀から犬になり、子供になった。そして涙があとからあとからと溢れた。ぼくの中で氷が溶けて流れ出した感じだ。ロボットが雀になり、犬になり、人間になった感じだ。あのきたない町の小鳥に餌をやる ー すっかり忘れていたことだ。こんな大切なことを。アパートの屋根にも、ごみすて場にも雀はいた。ぼくはすっかり忘れていた。胸に暖かいものが込み上げた。(西丸四方=著『病める心の記録 ある精神分裂病者の世界』(中公新書)より)


40年ぶりに『病める心の記録』を取り出して、上の部分を引用して、考えた。この少年は、この聖書(マルコによる福音書7:25~30)から何を感じとって回復へと向かっていったのだろうか、と。

この少年が読んだのは文語訳聖書かもしれないが、以下に口語訳聖書から引用する。

そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マルコによる福音書7:25~30)
この少年は、ここで語られている「子供たち」が「イスラエル」のことだとか、「小犬」というのは「異邦人」を表している等とは全く思っていないだろう。しかし、聖書が人間存在の深淵に触れてくるものであるなら、そういった知識や情報がなくとも、語られていることを受けとめるということが起こってくると考えられる。では、何を受けとめたのだろうか?


『病める心の記録』をまとめた西丸四方氏は、2部の「精神医学者の眼」で、「人間はだれでも根本的にこのような悪と善、醜と美、嫌悪と憧憬の対象を持ち、ときには両方の相反するものをあわせ持つ対象にぶつかり悩むものであるが、病気の場合にはこういうものがどぎつくバックグラウンドから浮かびあがってくるものである」と記しておられる。

また、「このケースの考察」として、15歳のこの少年には両親が孤児であったため祖父母がいなかったこと、4歳の時に母親を事故で失ったため父親によって養育されるが、中学3年のときに父が工員から外勤に転じて留守がちとなり、アパートで一人暮らしをしていたこと等が記されている。

また、「発病と治癒の機構」では、「精神分裂がなぜ起こるかはわからない。(略)脳の病気のために、バックグラウンドの力が強くなって現実の世界との交わりが弱まるために孤独になるのか、あるいは脳の病気ではなく、人間を心理的に孤独におとしいれると精神分裂になるのか、さまざまに解釈される。実験上でも、ある少量の物質を人間に与えると、精神分裂そっくりの症状を呈するし(赤字表記は管理人による)、また逆に人間からあらゆる感覚刺激を除去して、人間を心理的に孤独におとしいれると、幻覚や妄想が起こってくる」と記しておられる。

少年自身の記録でも、自分とは何かを問うているが、「精神医学者の眼」でも「自我の力が弱まり、孤独に陥ると、自己の存在の危なかしさを感じ、自分は本当はなになのかと疑い、過去にさかのぼって本当の自分を見出そう、…と考えるが、それもできないと、時間は今だけしかないという悟りに達する」と記している。
少年自身の記録にも「日が来、夜が来る。日が来、夜が来る」と、伝道の書でコヘレトが語っていそうな言葉が書き留められている。

聖書的に見るならば、罪の中で生きる私達は信じるということが出来なくなっている、ということである。

少年は書く、

ぼくのお父さん
あれは本当に父なのか
貧乏で暮しに追われて
いつも出稼ぎでたまに帰る
帰ってくればぼくをつれて
トンカツ屋でおごってくれる
銭湯へいって赤ん坊みたいに
体じゅう洗ってくれる
だけどまたぷいと仕事に行く
(略)
ぼくはあらゆるものの後に
なにかあるのを感じる
父の触れる手にふと
ぼくは父でないものを感じる
ー ー ー
お前はロボットの子だ
だれだ、そういう声は
この声はぼくの血を凍らせる

この記録には、人は何のために生まれて、生きて、死んでいくのかという問いがはらまれている。


さて、マルコによる福音書の記事に戻ろう。

スロ・フェニキヤの女とイエスとのやり取りを読んだ少年は、「小鳥に餌をやる」という大切なことを自分はすっかり忘れていたのだ、という。

聖書の中のスロ・フェニキヤの女自身は、イエスの語った「まず子供たちに十分食べさすべきである」の「子供たち」をどう受け取っただろうか?イエスとの様々な問答が聖書には記されているが、イエスの語ることをすんなりと理解して答を返していると思えるものはあまりないように思う。この場合も、どこまで女がイエスの語った言葉を理解していたかは定かでないと思われる。

ここでちょっと文語訳聖書を見てみよう。文語訳聖書では、「まづ子供に飽かしむべし、子供のパンをとりて」と子供が単数形で記されている。だから『病める心の記録』で、この少年も「イエスは、子供に十分食べさせ、子供の食物をテーブルの下の小犬に投げてやってはいけない、という」と書いている。

「子供」が単数形で語られるなら、女の「子供」と受け取ることも出来る。娘の治癒を願って来た女に、イエスは「自分の子供に十分食べさせるべきだ」と語り、それを聞いた女は、娘の治癒を願って来たにもかかわらず「小狗も小供の食屑をいただきます」と答えたということになる。
この言葉は、生きるとは、自分のことだけ、自分の子供のことだけ、自分達のことだけを考えて生きるのではないということを表明しているようにも思える。
その女の言葉がイエスによって肯定されたために、少年はロボットから雀になり小犬になり、人間となって生きることを取り戻したといえるように思う。

聖書には生きることの本来のあり方が示されている。
信じられない世界の中で、信じて生きることが求められ、信じるに足るお方が示されている。
ここに信じられるものがある、少年はそのことを感じとったのではないだろうか。

これは、「子供」が「子供たち」と記されて、イスラエルを表していると女が受けとめたとしても根本的には変わらないように思う。それならばこの異邦の女は、神の愛がイスラエルに留まらず全ての人間に及ぶことを「信じた」ということになる。それをイエスは認められたのだ。「神は愛」だからだ。そして私たちは神に似せて愛する者として造られたのだ。

少年は、人間は愛して生きる(「小鳥に餌をやる」)ために生まれてきたのだということを、聴き取ったのだ。