風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

晩秋の珈琲カップ

一杯の朝の珈琲秋深む

立冬が過ぎたというのにまだこんな句を載せている。

これは私の晩秋から仲春にかけてのコーヒーカップ。これを使い始めて、やはりもう20年以上になる。貫入が育ってきている。晩秋の陽差しの中でうっすらと古色のついた貫入に見入っていると時間の経つのを忘れそうだ。

古色立つ碗に注げる秋陽差し

主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。(詩編104:19)

神はその驚くべき声をもって鳴り渡り、われわれの悟りえない大いなる事を行われる。
彼は雪に向かって『地に降れ』と命じ、夕立および雨に向かって『強く降れ』と命じられる。(ヨブ記37:5~6)

ここに引用したヨブ記の言葉は、旧約聖書ヨブ記」の中で、ヨブの友人のエリフが語った言葉である。
ヨブの友人達は、ヨブが災難に遭って苦しんでいると聞いて慰めるためにやって来たのだ。そして七日七夜ヨブと共に地に座していたのだが、ヨブの嘆きに堪えられずに口を開き始めたのだった。苦しんでいる者の傍らにあって黙ってその嘆きを聴き続けることがいかに難しいかを思わされる。友人達は堪えきれず語り始めたのであるが、その言葉はヨブを慰めるよりむしろ責めるものとなってしまう。けれど、語っている内容が間違っているわけではない。大方は正しいことを語っているのである。けれど私達の正しい言葉は、相手に対して反論の余地を与えず、決して苦しんでいる者を慰めることがないように思われる。

ところで、私がここで、このヨブ記の言葉を掲載したのは、誰かを責めるためではない。「秋を深め、季節を進められるのは神である」ということを言いたかっただけなのだ。あっ、やっぱり駄目か!自分の作った句の正しさを証明するために聖書を利用しては・・。

奇しくも、いや、配慮からか、小海の先生がヨブ記を取り上げてこんな風に記されていたので引用させていただきたいと思う。

 だが、主はヨブを退けたまわず、彼の魂の慟哭にじっと聴いていてくださっていた。だが、それがわかるのは、ずっと後のことである。
 悲しみの淵にある友に、軽々しく模範的信仰を要求することはみこころではない。
                                    (小海キリスト教会牧師所感
より抜粋引用)

又、この続きの記事では次のように記されている。以下、抜粋引用。

 そして同章7節で、神はヨブの三人の友人はヨブのようには神について真実を語らなかったとお叱りを受ける。神は、ヨブの語ることが真実であり、友人たちの語ったことは真実ではないと認定されるのである。
 ヨブ記は、神の前に真実とはなんなのか?という問いをわたしたちに突きつける。
   ↓http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20131113/p1

ヨブ記は興味深い内容であるが一人で読むと読み違う可能性があるように思う。いや、聖書はどこもそうかも知れない。だから、牧師達も聖書を読み、先人の書いた注解書に目を通し、又、聖書を読むということをするのだと思う。