風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『はだしのゲン』の投げた波紋は私の中で広がったまま、そして8月はまだ終わっていなかった

「私はこれまで、子ども達に原爆を扱ったものは読み聞かせないようにしてきた。それは、戦争について被害者意識に立って語り伝えたくないと考えたからだ」と書いた。けれどこれは少し違っている、と思った。私は原爆の被害を直接受けた者ではない。私の家族も原爆によって誰一人として失われることはなかった。そういう私が、ただ日本人であるという括りだけで、被害者の立場に立って子ども達に伝えられるわけがないということだ。
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http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20130819/p1


けれど、こんな物語はいつか子ども達に読み聞かせたいと思い、絵本を手元に置いている。
丸木俊・位里=作『おきなわ 島のこえ ヌチドゥ タカラ<いのちこそ たから>』(小峰書店

この絵本の後ろに書かれている平良先生の言葉は胸に堪える。堪えるけれど、引用したいと思う。

優しい魂
                           平良 修
 ヒロシマの爆心地にいた人は、あたかも初めからその人というものが存在していなかったかのように、消えてしまったという。そこに残された空白の中に、わたしたちは何を読み取ればいいのか。
 沖縄戦ー。かろうじて生きながらえた人たちの証言を収集してきた知人は、証言の一番きわどいところにくるとポカッと空白が生じる、沖縄戦証言者の共通性がそこにある、という。
 渡嘉敷島の船付場で集団自決の生存者の老婦人と会った。・・。彼女はものの怪にとりつかれたように、自分を襲った地獄を語ってくれた。わたしは踏み込んで尋ねた。“喉に刃物を当てたとき何を思いましたか”“そんなことが分かるか、わたしは死んでしまったんだのに!”。わたしは知人の言う空白にぶっつかった。
              ・
 丸木夫妻は心優しい人たちである。さもなければあの空白の前に立てるはずはない。夫妻はオキナワの戦いの図を子供向けの絵本の一ページ、一ページに静かにぬり込んだ。軍国主義国家体制から逃げ出すことを知らなかったばかりに、守り手を失い、戦火の中をオロオロさまよい、その果て、幼い屍とならざるを得なかった子供たちに代わって、戦火を未だ知らない子供たちに向かい、心を注ぎ出して“ワラビンチャー・ヒンギリヨー”(子供たちよ、逃げなさい)と語りかけるためにだ。
 絵筆の夫妻を責めさいなんだものは、日本兵による住民虐殺の事実であった。これを明らかにしないくらいならば自分らの絵筆とは何ぞや、との思いがあったに違いない。しかしその夫妻も、沖縄住民同志の殺害の事実にまでは触れることができずにいる。そこは沖縄の人自身でやってくれ、と。戦争を描くとはまさにそういうことであるはずなのに。夫妻の優しい魂は今から後もそのことの故に悶えを止めることはないだろう。夫妻のこの悶えに、わたしたちの魂はどう合わせていくことができるのか。わたしたちもまた、課題の前に立たされている。
       『おきなわ 島のこえ』「絵本にそえて」より抜粋引用。


このような出来事の前にどうやって立てば良いのだろうか、と考える。私はまだこの絵本を誰にも読み聞かせていない。

八月といふこの月の果て無さよ

夏期宣教講座でのもうひとつの李ソンジョン教授の講演のなかで、朝鮮戦争の戦死者の墓誌のなかに沖縄人の名があったことに衝撃を受けたというお話があった。当時、沖縄は米軍の支配下にあり、そのなかで沖縄の人々が朝鮮戦争に狩り出されていたのである。本土の人間は憲法9条を盾として、出兵を拒んだのであるが。