風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

樋口進牧師説教「霊の働き」(エゼキエル書37章1節〜10節から)

「霊の働き」の「霊」とは、キリスト教でいう三位一体の神の「聖霊なる神」のことです。

以下、樋口進牧師による2015年5月24日聖霊降臨節説教より掲載。

 今日はペンテコステ聖霊降臨日の礼拝でございます。この聖霊降臨ということを心に覚えつつ礼拝を守っていきたいと思います。主イエスが復活されてちょうど50日目に一軒の家に集まっていた弟子達の上に聖霊が降りまして、彼らは大きな力を受けて御言葉をのべ伝え、そこに最初の教会ができました。ですからペンテコステは教会の誕生日と言って良いと思います。さて、ペンテコステの日に弟子達に聖霊が与えられた時に色々な国の言葉で語り出したというふうなことが使徒行伝に記されています。実に不思議なことが起こったといえます。しかしそれは文字通りのことが起こったというよりも、色々な国の言葉で語り出したというのは、一つの象徴的なことを言おうとしているのだと思います。すなわちキリストの福音を広い世界に伝えるには言葉が障害になります。そこで弟子達が色々な外国語で語ったと言うことは、その言葉の障害が取り除かれて福音が全世界に広められるということの象徴であるというふうに思います。使徒行伝はルカが書いたんですけれども、ルカは、そういう言葉の障害が取り除かれてキリストの福音が全世界に伝えられていくのだということを示された、と思うのです。そうして使徒行伝を読みますと、最後にパウロがローマに到着するというところで終わっています。ローマという所はこの当時の世界の中心ですから、その中心に福音が伝えられたということは、全世界に福音が伝えられるということの象徴であるというふうに思います。そしてルカが夢みたその幻が実現したと思います。それは、現代におきまして世界の至るところに福音がのべ伝えられているからです。聖書は全世界のあらゆる言語に翻訳をされ、世界中の人々が自分の言語で聖書を読むことができます。2011年の日本聖書協会の統計によりますと、聖書は世界中で2538の言語に翻訳されているということだそうです。世界中にそんな沢山言語があるのかと驚きますけれども、あるんですね。ちなみにこの統計によりますと、日本にも二つの言語に翻訳されております。一つはもちろん日本語ですけれども、もう一つはお分かりでしょうかね。もう一つはアイヌ語です。アイヌ語にも訳されている。そんなに沢山の言語があるのかって驚きますけれども、これはですね、アフリカなんかに行くと一つの国に沢山の部族がありまして、それらの部族が全部使っている言葉が違うんですね。そういう所にもそれぞれの部族の言語の聖書があるということでありまして、実に驚くわけです。これがルカの夢みたあらゆる国の言葉で弟子達が語り出したということが実際に実現されている現実ではないかということです。そしてこれは聖霊の働きであります。聖霊の働きは本当に偉大なものであるということをつくづく思わされます。そしてこの聖霊はですね、現代の私たちの教会にも働いているわけであります。聖霊っていうのは目に見えませんし、なかなか感じるということもできないですけれども、あるいは聖霊など働いていないというように思われるかも知れませんが、そもそも私たちがキリストの信仰を持つに至ったのは聖霊の働きなしにはあり得ないことだと思います。また、毎週こうして教会の礼拝に出席するというのも、これはもちろん自分たちの意志や思いで来ているのは確かですけれども、その背後に聖霊の働きがあるということであろうかと思います。
 そこで今日はエゼキエルの預言を通して神の霊の働きについて学びたいと思います。エゼキエルという預言者が活躍したのはイスラエルの歴史において最も悲惨な時代でありました。それは紀元前6世紀の初め頃、主イエスの誕生より約400年ほど前でございますが、この時代、イスラエルという国はバビロニアによって滅ぼされたわけであります。そうして多くの人が故国エルサレムから遠いバビロニアの地に捕囚として連れて行かれました。世界史に出てくるバビロン捕囚という出来事であります。そしてこの預言者でありましたエゼキエルも、この捕囚として連れて行かれた一人でありました。そしてこのバビロン捕囚の地で預言者としての召命を受けました。捕囚というのは悲惨な状況でありました。戦争に負けるということ自体が非常に悲惨なことであると思います。家は焼かれ、家族は殺され、着の身着のままで捕虜として連れて行かれるというようなことであります。そして見知らぬ土地で不自由な生活を強いられるということであります。そのような絶望状況に陥っていた捕囚の人々に神による希望をのべ伝える使命を与えられたのがエゼキエルという預言者であります。
 今日のテキストはエゼキエルに与えられた幻であります。もう一度読みますと、37章の1節、2節「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。」エゼキエルは谷の中に導き出されたわけですけれども、おそらく、この谷というのはかつて戦場になったところでありましょう。そこでは多くの戦死者が出ました。しかし誰もそれを葬る者もなく、遺体は放置されたままであります。そしてそれらの骨はもう時が経って白骨化していたわけであります。
 3節を読みます。「彼はわたしに言われた、『人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか』。わたしは答えた、『主なる神よ、あなたはご存じです』。」旧約聖書におきまして、死んで間もない人はまだ生き返る可能性があるというふうに考えられていました。旧約聖書の列王記には、預言者エリヤが死んで間もない子どもを生き返らせたという話が出て来ます。しかしながら、ここにおきましては死んでからもう相当時が経っているので、その骨がみんないたく枯れていたとあります。そのような骨を生き返らせる可能性というのは全くありません。神さえもどうすることも出来ないというふうに考えられていました。ですからもう全くの絶望状況でありますが、しかし神は尚その骨に働きかけるようにこのエゼキエルに言います。
 4節、5節を見ますと、「彼はまたわたしに言われた、『これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。』ここでエゼキエルは枯れた骨に預言するように命じられました。これ自体が非常にありえない事なんですが、敢えてそう命じられました。そして神が息を吹きこむと、その枯れた骨は生き返るというふうに言われました。エゼキエルは預言者でありますから、預言するということは任務であります。しかし普通預言するというのは生きた人間に向かって預言をするわけであります。しかしここでは枯れた骨に預言するということでありますから、このようなことは旧約聖書の中でも他には例のないことであります。今までの預言者もそのような経験はありませんでした。しかしながら神は生ける者の神であるだけではなくて、死ねる者の神でもあります。全てのものの支配者であります。そして神の言葉には全てのものを生かすという、そういう創造的な力があります。神の言葉は人を生かす力があります。聖書の御言葉は弱っている者を強める、また、死んだような状態になっている者にも命と希望を与える、そういう力があります。このような出来事がここで起こったわけであります。
 さらに7節、8節見ますと、「わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。」エゼキエルが預言すると、枯れた骨が近づいて筋と肉が生じ皮膚で覆われた、というのであります。実に不思議なことが起こったわけであります。しかしこれはまだ生きたものではなかった、とあります。聖書におきまして、肉体が備わっているだけでは真の生きた人間とは言えません。神の息が吹き入れられて初めて真の人間として生きたものとなるのであります。創世記2章のところに、最初の人が神によって造られた話が出て来ますが、そのところで神が土の塵で人を形作りましたが、それで終わったのではなくて、さらにそれに命の息を吹き入れられたとあります。真の人間はただ肉体を備えているだけではありません。神の息が吹き入れられて本当の人間として生きることが出来るのであります。ですから神の息が吹き入れられなければ真の人間ということではないというのが聖書の理解だと思います。神に息を吹き入れられるということはどういうことでありましょうか。それは神様との関係に生きるということであります。そこでエゼキエルはすでに人間の形ができているその者に向かって、霊、息を吹き入れるように言われます。
 10節を見ますと、「そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。」とあります。ここで息と訳されている言葉は、ヘブライ語でルアッハという言葉ですが、これは霊というふうにも訳されます。ですから、ここで霊というふうに捉えて良いと思うのですけれども、神の霊の働きによってこの白骨化した骨が肉体を与えられ、生かされ、そして大きな集団となったというのであります。人間の頭では考えられない、全く不思議なことが霊の働きによって起こったわけであります。
 さて、この37章の1節から10節、これは実際に起こったことというよりもエゼキエルが示された幻であります。それではこの幻はいったいどういうことを提示しているのでありましょうか。今日のテキストの次の11節には、「そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。」とあります。ですから、この枯れた骨というのは、実はバビロン捕囚になっているイスラエルの民全体のことであるというふうに言われております。先程申しましたように、紀元前6世紀の初めにイスラエルバビロニアによって滅ぼされ国を失いました。そしてエゼキエルはじめ多くの人々が捕囚としてバビロンに連れて行かれました。これは非常に悲惨な出来事でありました。
 戦争はいつの時代にも悲劇を生むと思います。特に戦争に負けた国は悲惨であります。私たちの日本もこの経験をしております。ですからその悲惨を二度とくり返してはいけないということのために日本国憲法、特に平和憲法が出来たと思います。しかし日本は特に広島、長崎の原爆で非常に悲惨な目に遭いまして、この核は使ってはいけないという協定が話し合われているのですけれども、核不拡散条約、最近もこれが行われてニュースにもなりましたけれども、オバマ大統領が核無き世界をめざすというふうに言いまして、それによってノーベル平和賞を与えられました。しかし現実はそれがなかなか進んでいないということでございます。なかなかその合意が難しい状況にあります。そもそも少々核を減らしたところで現在アメリカ、ロシアをはじめとして世界の核保有国の核兵器は何千発とありますから、これのほんの一部が使われれば世界は滅んでしまうという、そのような実情であります。人間は何故このような愚かな事を考えたりするのでありましょうか。私たちは広島、長崎の悲惨をくり返してはならないというふうに強く思います。このような大きな悲劇をくり返さないために平和憲法が作られました。しかし今この平和憲法が危機に瀕していると思います。
 さて、このバビロン捕囚の民が経験したのは非常に大きな悲惨な出来事であります。ここで枯れた骨というふうに言われているのは、全くの絶望状況に陥っていた捕囚の民を表しています。このような何の希望もない絶望状況に陥っている捕囚の民のことを「枯れた骨」というふうに言い表しているわけであります。今読みましたところに「われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる」というふうに二重カギ括弧で言われていますが、これは当時の捕囚の人たちが言っていた言葉であります。ここでは、自分たちは枯れた骨だからもう何の希望もない、と言っていたわけであります。こういう絶望状況に陥っている人たちに果たして希望というものを与えることができるのだろうか。全く望みを失って生きている、そういう枯れた骨の状態の人たちに何か希望が与えられるのであろうか。それは殆どの人がもう何も自分たちには出来ないと思っていたわけであります。肉体がありますから日々の生活はしていたでありましょう。しかし人間、肉体的に生きていても本当に生きるとは言えません。人は呼吸をし、動いているだけでは動物的に生きていても真に人間として生きているとは言えない、と思います。目的を持ち、希望を持ち、たとえ苦労しながらでも喜びを見いだし、何か生きる意味を持って生きていかなければ真に生きているとは言えません。肉体的に生きるだけでなくて精神的に生きなくてはなりません。もう一つ言うと、霊的に生かされていなければ真の意味での人間とは言えません。そしてこれは民が霊を吹き入れられた神との正しい関係に生きるということであります。いくら元気いっぱい飛び跳ねていても霊的には死んだような人もいます。神を知らず自分の欲に従っている者であります。しかし逆に肉体的には弱っていても霊的には活き活きとしている人もいます。神の霊によって生きている人であります。私たちにもそのような霊を与えられると言われております。
 今日はペンテコステであります。弟子たちは主イエスが昇天された後、不安な気持ちを持ち恐れながら一軒の家にひそかに集まっていました。その時、天から神の霊が一人一人に与えられて今まで死んだようになっていた弟子達が大きな力と勇気を与えられて大胆にイエスをのべ伝えるために外に出ていったのであります。そしてそこで多くの人たちが洗礼を受けて最初の教会が出来たわけであります。私たちには初代教会の人たちのような劇的な変化はないかも知れませんが、しかし同じ神の霊が私たちにも働いているわけであります。このことを先ず私たちは信じなければならないと思います。このことを信じて常に霊の働きを求め祈り、どのような時にも意気消沈せずに勇気と希望を持って歩んでいきたいと思います。