風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

柏葉幸子の描く物語ーその1

霧のむこうのふしぎな町柏葉幸子=作(講談社文庫)
娘が小学四、五年の頃に一緒に読んだ物語の中に、柏葉幸子さんの作品が多くある。この霧のむこうのふしぎな町は、ジブリ映画の千と千尋の神隠しの元になったとも言われているが映画とは全く内容が違う。

小学6年の上杉リナは、お父さんの勧めで夏休みに「霧の谷」へとやって来た。柄の先にピエロの顔のついた傘を追いかけて飛び込んだ洋館から「リナかい。そろそろつくころだと思っていたよ。はいっておいで」と声が聞こえる。ー霧のむこうのふしぎな町はこんなふうにして始まる。
この洋館は霧の谷の下宿屋なのだ。この下宿屋のソファのしみのようなおばあさん、ピピティ・ピコットのモットーは「はたらかざる者、食うべからず」なのだった。

自立への第一歩は「自分の事は自分でする」という事ではないだろうか。そして、その最終到着点は「愛する」ということだと思う。いわさきちひろの言葉にこういう言葉がある。「大人というものはどんなに苦労が多くても、自分の方から人を愛していける人間になることなんだと思います」(『ちひろのことば』(講談社文庫))ーこのお話を読んでいて、この、ちひろの言葉を思い起こした。

生まれつき障害を持っていて、あるいは事故によって、自分のことを自分で出来ない人がいる。自分のことを自分では出来ないけれど、愛し愛されて周りの人を幸せにしている人も世の中にはいる。又逆に、自分のことは自分で出来るけれど、自分のことばかりに一生懸命で他者を愛そうとすることから遠く離れている人も多くいる。人間とは不思議なものだと思う。

自分の罪を完全に理解することは人間には不可能だろうと思う。けれど、自分の願いどおりに人にして貰うことばかりを要求している人間には罪というものは欠片も理解できないだろう。「罪を自分のこととして理解できない人間にはキリストの十字架の意味は理解できない」、そして「キリストの十字架の意味が理解できない人間には愛というものの本質を理解することはできないだろう」、と私は思う。

この物語にはキリストも十字架も出ては来ない。けれど柏葉幸子さんの物語は、「愛」というものを知るための門口に立たせてくれるように思う。奥深くに「愛」の潜む壮大な建物のほんの門口にすぎないけれど・・。