風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子37

あの者らいづこにかくれし わがもとに食ふべし菓子のくさぐさのこりて『鷹の井戸』
「食ふべし」=「食(く)ふ」+「べし」(〜に違いない)の終止形だろうか?それなら、「菓子」が後にくるから「べき」でなければおかしいのではないだろうか?それとも「食(たう)ぶ」の連用形「たうべ」に過去の「き」の連体形「し」だろうか?しかしそれなら「食べし」であるはずだが、「食ふべし」となっている。
この短歌は文法上の理解に私の力の及ばないところがあるのだが、歌から、お菓子を食べ残してどこかへ行ってしまったのは子どもだろうと連想する。しかし、この「子ども」という連想は、私を、「神の子達」という連想へと導いて行く。カトリックの信仰を持った娘さん方のお子さん達ではなかったか、と。

この歌のすぐ後に次のような歌が続いている。

零れたる菓子のカケラを綴りゐるみえざる糸の吾を絡めゆく『鷹の井戸』
そうして、これらの歌の十数ページ後に次の歌を見つけた。

たうべたるわれなりければ口唇はつかなるかなや糖蜜ひかる『鷹の井戸』

二首目の歌には何かわだかまる思いが表されている。自分だけはこのお菓子を食べる人達の群れの外にいる、というような・・。
そしてその十数ページ後に三首目が置かれているところに、心情の推移が表されているように思える。「あぁ、妙子は、食べたんだな」と、この三首目を読んだ者に思わせる、そのように妙子はこの短歌を配置したのだ。食べる前に、誰にも見られていないだろうかと辺りを見回す姿さえ頭に浮かぶ。

第八歌集『鷹の井戸』の中にこれらの歌を見つけた時、聖書の次の記事を思い浮かべた。

さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。(マタイによる福音書15:21~28)

葛原妙子も、きっとこの聖書の箇所を頭においてこれらの歌を作り、このように配置したのだ、と思った。

「はつかなり」=ほのかだ。かすかだ。ほんの少しだ。
「かなや」=「かな」(詠嘆、感動)+「や」(詠嘆、感動、強調)。
「はつかなるかなや」は、ちょっと意訳して「ほのかだがなぁ」だろうか。だが仄かではあっても、「糖蜜ひかる」に喜びの表現があふれているように思う。甘く、美味しく、きっと大満足したに違いないと思わせる表現である。

主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。(詩篇19:9~10)

あなたのみ言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさってわが口に甘いのです。(詩篇119:103)

そして彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしがあなたに与えるこの巻物を食べ、これであなたの腹を満たしなさい」。わたしがそれを食べると、それはわたしの口に甘いこと蜜のようであった。(エゼキエル書3:3)

見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。(列王記上19:6)

ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする。(箴言16:24)

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」(マタイ福音書26:26)