風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

マルコによる福音書7:24~30(1月の聖書研究会より)

さて、イエスは、そこを立ち去って、ツロの地方に行かれた。そして、だれにも知れないように、家の中にはいられたが、隠れていることができなかった。そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(マルコによる福音書7:24~30)

1月の聖書研究会で資料の中に引用されていた渡辺信夫先生の『マルコ福音書講解説教』の中の言葉が心に響いたので、抜粋掲載したいと思う。

 イエスガリラヤを立ち去ってツロの地方に行かれました。これはユダヤ人の地を捨てて、異邦人伝道におもむかれたということではありません。かれはツロの地でも、誰にも知られないようにされたのであります。ユダヤ人であれ、異邦人であれ、人間に知られ、人間に取り巻かれることをこのとき主は極力避けておられました。なぜなら、このたびの旅行の主要目的は弟子の訓練にあったからです。
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 ひとりの女が、イエスのことをすぐ聞きつけました。・・。
 ・・。かの女は悪霊につかれた女の子をかかえて、失意の底におりました。・・。そのようなところに一片の福音の破片が与えられるとき、かの女は立ちあがりました。
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 この母親はイエスの足もとにひれ伏しました。・・。
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 この女の生まれは、スロ・フェニキヤすなわちこの地方でした。このとき、イエスは弟子の教育のために来られたのであって、外国伝道の目的はもっておられませんでした。しかし、この事件は全体として見て、外国伝道への道をつけるものでありました。・・。キリストの福音はユダヤ人社会から異邦人世界に移ろうとします。その転回点に、ひとりのみすぼらしい悲劇の母が立っています。
 イエスはひれ伏してすがりつくこの母親を冷たくしりぞけられます。・・。
 もちろん、主ははじめからこの女の信仰を読みとっておられました。しかし、・・。
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 イエスはまず子供たちに、と言われます。子供がユダヤ人をさし、犬が異邦人をさすことは説明するまでもありません。・・。イエスはこの言葉によって、ギリシャ人に福音が与えられる時期が来たと思うか、との問いを言外ににおわせておられるのです。
 女は、しかり、主よ、と応答します。
 主の言いたもうことには、たといそれが自分に不利であっても、「しかり」と言わねばなりません。それがわたしたちの従順です。
 けれども、主の恵みが、わたしたちの考えるよりもずっと巾ひろいことを忘れて、いたずらに悲壮になって、しかり主よ、というのがよいのではありません。かれはわたしたちに絶対的な服従を求めたまいますが、それでもなおと言う余地を恵みによって残したまいます。・・。
 女はへりくだって自らを小犬になぞらえました。パンの食いこぼしをペロペロなめる犬になり切るへりくだりが信仰には必要です。しかし、それは一面です。もう一面に大胆と確信があります。この女は、まず子供がパンを食べるべきであると認めます。しかし、次に、今や小犬の食べる時期が来ているというのです。福音の歴史に、今、転機が来た、と魂かけて告白するのです。・・。
 もし、しかり主よ、と答えているだけでは恩寵の世界は開けて来なかったでしょう。ヤコブが神とすもうをとって、恵みをかちとるまで一晩中くらいついたように、この女も、信仰において主キリストにくいさがり、恩寵の世界を引き出しました。恩寵なきがごとき世界にも、敢えて、見ずして、恩寵の所在を信じたからであります。
 イエス・キリストは、この言葉をめでたまいました。そして帰れといわれます。信仰をもってかの女は帰るのです、帰る先に開けていた世界は、しばらく前とは全く違っておりました。それは悪霊の支配が敗れ退き、キリストの王国の光が射している世界でありました。わたしたちが主の食卓からパンを受けて帰って行く世界も、まさにそのように現実が転換している世界なのです。(渡辺信夫=説教『マルコ福音書講解説教』(新教出版社)より)