寄せ集めの古き写真の真ん中で誠之助は柔らかに笑む
大石誠之助は大逆事件で処刑された人物だ。そして、私の故郷の人だ。
私が故郷に帰った後、事件から100年ということで、テレビでも取り上げられた。
冤罪の古き事件の映像に笑みて映れり処せられし人は
大逆の幸徳秋水覚えしに大石聞かずふるさとに生ふ
日本史の試験で、大逆事件と幸徳秋水の名前は覚えたりしたが、大石誠之助の名前は聞いたことがなかった。医者であった誠之助は、「毒を取る」という意味でドクトルと呼ばれていたようだ。
冤罪に死せる「わが町の毒取る(ドクトル)」と呼ばれし人の笑みのやはらし
和歌山の方言では、「柔らかい」ことを「柔らし」と言う。
誠之助は祿亭という号で情歌なども作っていたようで、死の前には短歌も遺している。その中に、「私はかつて恋はしなかった。恋をするにはあまりに漠然とした愛でしかなかったから」というような歌がある。その誠之助が処刑が決まった後に妻や友人であった牧師にあてた手紙が、胸に迫る。
絲屋壽雄=著『大石誠之助 大逆事件の犠牲者』(濤書房)より引用してみる。
ある人の言葉に「どんなにつらい事件があろうとも、其日かおそくとも次の日には物を食べなさい。それがなぐさめを得る第一歩です」という事がある。お前も此際くよくよと思ってうちに引こんでばかり居ずと、髪も結い、きものを着かえて、親戚や知る人のうちへ遊びに行って、世間の物事を見聞きするがよい。・・。(妻にあてた手紙)
・・・。今回の事件に付、私が最も苦しく感じるのは、自分の妻子の弱い胸へ重き疵をつけた事です。彼は比較的しっかりしているようですが、・・・。私は子供の世話をまかせる外、彼を絶対に自由にしてやりたい。・・、彼の前に再び新たなる歓楽の道が開ける事を熱望して居ます。そして若しそういう場合に逢うても、私の親戚等が寧ろこれを喜ぶという態度をとってほしいと思うのです。・・。(友人の牧師にあてた手紙)
己が愛はかなきを知るドクトルのみ文つきせずつきせずやさし
一粒の麦死してのち実を結ぶ 誠之助死しゑいは生りたり
妻の栄子はその後植村正久の元に身を寄せ、婦人伝道師となって生涯を終えたという。
彼の人を思はする如やはらかに笑まへる人は冤罪に死す
「彼の人のようだ」と言えば誠之助きっと困って奥つ城に笑む
故郷に帰ってきて誠之助に関するものを読みふけっていたある日、夢を見た。写真の微笑みが私の中にあまりに強烈に刻印されたせいか、雨の中で傘をさした誠之助は夢の中でも微笑んでいた。微笑みがゆっくり消えて、夢から覚めた時、私は明治から平成へと引き戻されていた。
夢に見き 誠之助が番傘に微笑みてのち ゆっくり 消・え・た・・・
・
百年の時経れどなほその疵の奥へ奥へと深まりて閉づ
参考書籍:森長英三郎=著『祿亭大石誠之助』(岩波書店)