風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「じっさいには神こそが決定するのです」(『デリダ 脱構築と正義』より)

 さらに、デリラの「決定」論のもう一つ重要なポイントが、アブラハムの決定をとおして見えてくる。それは、「主体」には決定はできない、なぜなら、真の決定はある意味で他者の決定でなければならないから、ということである。

 主体は決定することができない? 真の決定とは他者の決定である? 西洋哲学のオーソドックスな伝統からすれば、たしかにこれほど異様な思想もないだろう。決定が主体的決定を意味するのは、ほとんどトートロジカルな自明事ではないか? 自由で意志的、自律的、能動的、自己意識的な主体であってこそ決定することができるのであり、他者による他律的決定など無責任の極みではないか?

 デリダによれば、事態はむしろ逆である。(略)自己を決定の起源と考えることは、自己の宣言が他者の呼びかけへの応答であることの否認であり、決定不可能なものの経験の拒絶なのである。

 

(略)

 

 この意味で、決定不可能なものの経験とは、主体が他者に先立たれる経験、他者に呼び出され、召喚され、要求されるがままになる経験、要するに、主体が主体でなくなる経験としてしかありえない。他者の歓待、他者への贈与という「不可能なもの」が生じるためには、なんらかの仕方で主体の崩壊が、あるいは主体の脱構築が経験されねばならないのだ。「決定の瞬間は一種の狂気である」というのは、決定の瞬間が「構成された正常性=規範性」の中断の瞬間にほかならないからである。この意味で、アブラハム的決定は主体的決定ではない。それは「一種の狂気」である。アブラハムの決定の起源には他者の呼びかけがあり、また最後には彼は、なんの手掛かりもないまま、「非知と非規則性の夜のなかで」他者の呼びかけに応じるのである。

 

   アブラハムのケースでは、じっさいには神こそが決定するのです。(「ディアラング」)

        (高橋哲哉=著『デリダ 脱構築と正義』p254、255~256)

 

 

私はここで、大逆事件で冤罪のまま死刑に処せられた大石誠之助の辞世の歌を思い浮かべた。

 

何ものの大なる手かつかみけん五尺のをの子みぢろぎもせず  大石誠之助

                    (一月十八日判決言渡の日の朝)

 

 

myrtus77.hatenablog.com

 神の民は、神に呼ばれ招かれます。イエスも同じようにして弟子を召されました。マルコによる福音書1章16~18節では、漁をしていたシモンペテロとその兄弟アンデレに対して、イエスは「わたしについてきなさい」と言われます。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従ったのです。

 アブラムの場合も、イエスの弟子たちの場合も、不思議です。なぜこれだけの言葉で、従っていけるのでしょうか。しかしよく考えると、キリスト者は皆そうなのかもしれません。なぜ神を信じ、神に従っているかと聞かれたら、一人ひとり答えは違うでしょう。けれど一言で言うと、神さまに召されたということになるのではないでしょうか。ここに集う誰もが、神に呼ばれ、招かれているのです。

(略)

 わたしたちは未来を知りません。それ故、わたしたちはいつも不安です。だから多くの人は、占いを求めます。しかし、アブラムに、そしてすべての神の民に求められるのは、神に依り頼み、神を信じて生きることです。