風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『太平洋食堂 The pacific refreshment room』作:嶽本あゆ美/演出:藤井ごう


孤独に耐えうる者でなければ連帯することはできない。
何もしないことに耐えられなければ何事も成すことはできない。
間違うことがあると分かっていなければ引き返すことはできない。
愛し得ないと気づかなければ本当の愛を希求しようとは思わない。




太平洋食堂を開いたのは日露戦争前で、非戦論者の彼としては、世の太平を祈ると云ふ念願を篭めて、又目前の太平洋を思ひ浮かべての命名である。(濱畑榮造=著『大石誠之助小伝』より)



彼の人のやうだと言へば誠之助きっと困って奥つ城に笑む


あなたは今の世界をどう見ていますかー
初演の稽古を前に、…墓の前で問いかけた。

過去の革命は少数偉人の手により為されたりといえども将来の革命は多数凡人の自覚によって行わるべしー
自分は決してストライキそのものを善い事だとは云わぬ。併し悪いものを悪いと主張する元気や、嫌なことを嫌だと言いぬく自由の精神は最も尊重すべきものではないか、こういう元気と精神を青年の頭から取り去ることは即ち、青年を屠ることと同じであるー

今から百年以上前、こんなことを書き記した人物がいる。

大石ドクトルこと、大石誠之助である。劇中、大星誠之助、大星ドクトル。
大逆罪という汚名をきせられた人物の一人。
その発想の豊かさ、自由さ、奔放さ。そして人間らしい身勝手さ。この人物に惚れこんだ嶽本さんの筆圧は強く、物語は紡がれていく。

(中略)

今の日本の問題はこの時代に目をつぶったことの多くから未だあるのではないか、なんてこの場に書いてたったの二年、あまりに色んな問題に眼をつぶりたくもなるけれど、

いつか「あの時」に変換されてしまいそうな時代を、自覚ないまま生きる僕らに、
この物語は人物たちは『今』を鋭く突きつけてくる。
(「演出の戯言」藤井ごう『太平洋食堂』パンフレットより抜粋引用)
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自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。(列王記上19:4~8)

 西村伊作の『我に益あり』には、処刑前後の模様がなまなましく記録されている。
 「死刑の日が来た。その日に叔父の妻のエイは床の中で、あちらに寝返り、こちらに寝返り、煩悶していた。彼女はそのとき、二十六歳であった。しかし彼女には女の子と男の子がいた。まだその子供たちは小さかった。…」

(中略)

 判決の結果はとくに御存知の通り。これについてはもう何も言いますまい。…。今回の事件に付、私が最も苦しく感じるのは、自分の妻子の弱い胸へ重き疵をつけた事です。彼は比較的しっかりしているようですが、此際人に顔を見らるるのがいやなような風で、何処かよそへ行って暮したいと言って居ます。どうか・・の老嬢のように厭世的にならないようにお導きを願います。…。私は幸いからだも精神も大丈夫ですから御安心を乞う。折々お手紙下さい。(明治四十四年一月二十日、沖野岩三郎あて)

(中略)

私は今までをりにふれ事につけ、兄が生きて居てくれたら、と云ふ感じの起る事を禁じ得なかった。情に於て彼の早く逝かれた事を惜まずには居られない。而かも人間から見て最も悽愴なと思はるる彼等の死は、神の方から見て最も幸福なものでは無かっただらうか。彼等が信仰の高調に達した時、礼拝堂に於ける朝の祈禱のうちに、夫婦が手を携へて主の召に応じたと言ふ事は、何といふ麗はしい理想的な終であっただらうか。私は其処に彼等の信じた神の旨のある事を疑はない。
     何ものの大なる手かつかみけん五尺のをの子みぢろぎもせず
     運命の手にとらはれしわれながら尚ほも生きんと悶えつつあり
     われ嘗つて恋はせざりきこひするにあまり漠たる愛なりしかな
     わかむくろ煙となりてはてしなきかの大空に通ひゆくかも
                   (一月十八日判決言渡の日の朝)
                         佐和慶太郎 所蔵
             (絲屋壽雄=著『大石誠之助 大逆事件の犠牲者』より)


己が愛はかなきを知るドクトルのみ文つきせずつきせずやさし

一粒の麦死してのち実を結ぶ誠之助死しゑいは生りたり


1916年9月29日大石ゑい、沖野岩三郎につれられて東京へ出る。後年、富士見町教会婦人伝道師となる(森長英三郎=著『祿亭大石誠之助』年表より)


以下は、知人から教えていただいたツルゲーネフ『ルーヂン』からの一節。
人はどんな打撃をうけても、その日のうちか、たかだかあくる日にはー無作法な言い方だがーものを食べる。そしてそれがまた最初のなぐさめともなる・・・・(ツルゲーネフ=作『ルーヂン』より)



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