風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子17

奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが纍々と子をもてりけり『橙黄』
葛原妙子のご長女である猪熊葉子さんは『児童文学最終講義』の中でこの短歌を紹介した後、次のように言っておられる。
「子どもの立場から言えば、どうしてそんなに累累と子どもたちを産んだのよ、第一、どうして結婚なんかしたのよ、と言いたいところです」
私自身(筆者)もそれほど幸せな家庭に生まれ育ってはいないので、猪熊さんのおっしゃりたいことは分かっているつもりなのだが、ここではあえて妙子の心情に迫るために妙子の立場に立って思い巡らしてみたいと思う。

聖書の中には次のような言葉が書かれてある。

自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。(ルカによる福音書6:32)
葛原妙子が聖書のこのような言葉を意識していたとは思わないのだが、このような想いは抱いていたのではないかと思う。

母てふ名しばしば負ひめとならむ日よしのびかに春はガラスを曇らす『橙黄』
いびつにあらむわれのこころに降る雨のひと日はぬくしやさしくあらな

歌集『橙黄』にこのような歌を詠っている妙子自身、淋しい子ども時代を送ったようだ。であるから余計に自分の愛せ無さを悲しみ、同時に「愛」というものを求めていたといえるのではないだろうか。そしてそれは、自分を愛してくれる者(身内)を愛するというような小さな世界では見いだせないものだったのではないだろうか。「本当の愛によって愛され、本当の愛によって愛する」、そのような関係がどこにあるのか分からない、もしかしたらこの世にはないのかもしれない。けれど、妙子はそのような愛を渇望していたのではないかと私は思う。


美しき徒(むだ)のひとつと秋の日の漏水は飛沫(しぶ)く鉛の管より『飛行』
ガラスの鐸(すず)鳴らし家族を食事に呼ぶはかなかる日のわたくしごとと
ひしひしとかなしきまひる陽の散斑(はらふ)落ちたる卓布にパン屑を掃き

第三歌集『飛行』にあるこのような歌は、第六歌集『葡萄木立』の次のような歌につながっていくように思う。

飮食(おんじき)ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪の如し『葡萄木立』
木々のむれ裸となりし日こつぜんと用なき壺の照りいでにけり
そこに在ること ただあるのみにて燦然と小さき硝子の壺よ

仕事を持ち外に出て社会に貢献するということもなく、自分自身の一部であるような身内の世話をして、「本当に愛すること」から遠く離れて年老いていく、そんな寂しさがひしひしと伝わってくるように思う。

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http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20120501/p2