風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

愛されたという体験

『死にゆく者からの言葉』鈴木秀子=著(文春文庫)
私は本を初めから順序よくは読まない。小説であっても、たいてい解説があれば解説から読む。そして途中まで読むと必ず結末を読んでみる。エッセイだと尚のことだ。

『死にゆく者からの言葉』という本を文庫で買って、ちらちらページを捲っていた。そして、「結婚を約束していた二人は、長い時間をかけて話し合いました。・・・。二人は結婚とは別の人生を選択したのでした」という文を目にした。前のページを捲ると、「ジェーンは・・。彼女にはかつて結婚を誓った青年がいました」という文章があって、ある夕方二人が公園でいるところへ銃を持った男が現れ無差別に撃ち始めた、と書いてある。私は思わず相手の男性が卑怯な態度をとったために信じられなくなり破局を迎えたのだと思った。ところが事実は全く逆で、婚約者の青年はジェーンを後ろにかばい、銃を持つ男の前に立ちはだかったのだと書いてある。そして男は青年の気迫にのまれ逃げ去ったのだと。二人は「死を超える何か大きなもの」に出会ったという強い体験をしたことに気づき、ジェーンは修道院に入ってシスターとなり、青年は医者となって南米の僻地で一生を捧げることにしたのだと書いてあった。

衝撃的だった。あまりの自分の想像力の貧しさと低級さに衝撃を受けたとも言える。こんな自分がクリスチャンだなんて名乗っちゃいけないだろうと思ってしまった。「大いなるもの」を信じて生きているとは、とても恥ずかしくて言えないと思った。だけど、そんなふうに命をかけて愛されたら、結婚なんてしなくても良いと思えるのかもしれない、と。

けれど・・、キリストも私達を命がけで愛して下さったのだった。日常の繰り返しの中でそのことを忘れて、「自分もそんな大いなる愛に出会えたら、もっと素晴らしい人生を生きられたと思う」なんて思ってしまうのだが・・。


この『死にゆく者からの言葉』の「海辺の少年」の中で、シスタージェーンは小児ガンの子ども達に関わっている40歳の女性と紹介されていて、著者の鈴木秀子さんは最後をこんなふうに締めくくっている。

 彼女がもし結婚を選んでいたなら、きっといい家庭を築いていたに違いありません。しかし彼女は自分の子供を持つ代わりに、死んでいく小さな子供の気持ちを汲み取り、その子の気持ちに添い、思いをすべて受け入れながら共に居て、その子の思いを希望へとつないでいく力を育てたのです。それは、死をのりこえて、「大いなるもの」に出会い、その「大いなるもの」に賭けた人の持つ底力なのだと感ぜずにはいられませんでした。
 カリフォルニアのまばゆい光と白い砂浜を思うたびに、シスタージェーンとトニー少年と共に過ごしたあの静かな時間が甦ってきます。その度に私の胸は、理想に燃える青年のように、「真剣に生きたい」という想いに疼くのです。(『死にゆく者からの言葉』より引用)

この本はまだ最後まで読んでいないのだけど、ここの部分は何度も読んで、読む度に深く打たれる。私も、小さな世界ではあるけれど、与えられた場で精一杯生きたいと思わされる。