風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

博士の愛した数式とティリッヒ神学2

私が『キリストとイエス八木誠一=著(講談社新書)の中で出会ったのは「神は存在の根柢である」(ティリッヒという言葉だった。それは、すでに洗礼を受けてはいたが、不安と迷いと混沌の中にあった私が、ここに居続けようとはっきりと思わされた言葉だった。(もちろん、所属していた教会の牧師が取り継ぐ御言葉によって、その後の信仰を育てられたというのは言うまでもないが)

ティリッヒのこの言葉は、大島末男氏の伝記の中ではそのままの言葉では出てこない。伝記の中で一番この言葉に近いのは、「存在の深み」であろうと思う。けれど、この言葉も思索の過程の中で変化していくもののように思われる。
ティリッヒという人は、あらゆるものと神学との相関関係を探ろうとした人のようだ。哲学と神学においては、哲学の問いに対して神学の答えが相関される。哲学が哲学だけで閉じている時、私たちは答えの返らない問いの中に閉じ込められる。そしてその問いは答えを得られず虚無の中へと呑み込まれていく。この時の「深み」は「虚無の深淵」と言えよう。しかし、この問いに対して宗教的な答えが相関される時、虚無の深淵の中から「存在自体」が立ち現れてくるというのだ。

ここで、博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社)から引用しよう。ゼロの発見について博士が語る場面だ。

古代ギリシャの数学者たちは皆、何も無いものを数える必要などないと考えていた。無いんだから、数字で書き表すことも不可能だ。このもっともな論理をひっくり返した人々がいたのだよ。無を数字で表現したんだ。非存在を存在させた。素晴らしいじゃないか」
この言葉の後には次のような言葉が出てくる。

「0が登場しても、計算規則の統一性は決して乱されない。それどころか、ますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる。さあ、思い浮かべてごらん。梢に小鳥が一羽とまっている。澄んだ声でさえずる鳥だ。くちばしは愛らしく、羽にはきれいな模様がある。思わず見惚れて、ふっと息をした瞬間、小鳥は飛び去る。」
・・・。
「1−1=0
 美しいと思わないかい?」

ここのゼロは、小鳥が確かに存在したということを表している「0」だ、と私は思った。そして、0の登場によって秩序が強固になるというところで、0の中にある神と等しい性質を思った。
それにしても、博士の愛した数式は、何て美しい物語なのだろうと思う。

さて、肝心の博士の数式とティリッヒ神学の関係に移りたい。

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