風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

博士の愛した数式とティリッヒ神学3

さて、肝心の博士の数式とティリッヒ神学の関係に移りたいと思う。
オイラーの公式というのがあるらしい。それは、e のπi 乗プラス1=0というものらしい。
私は昔から数学音痴なので、本文の引用によって物語の中でこの公式がどのように理解されたかを示すことにしよう。


πと i を掛け合わせた数で e を累乗し、1を足すと0になる。
私はもう一度博士のメモを見直した。果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπが e の元に舞い下り、恥ずかしがり屋の i と握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。(『博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社))

e とは循環しない無理数で、2.718281・・・と果てしなくつづいてゆく数らしい。円周率πも循環しない無理数だ。i はー1の平方根虚数だと言う。この3つは、それぞれが何処までもそれとして存在していて決して交わらないもののように思える。このところで、私は、ティリッヒ』大島末男=著(清水書院の6ページ目に出てくる民主主義についての定義を思い浮かべた。

民主主義は異なる意見をもつ人々が「それにも拘わらず」正義に基づいて結合する。つまり分離(差異性)を前提とした結合(同一性)を民主主義は本質とするが、これが具体性と究極性を統合するティリッヒの「究極の関心」の本質であり、一神教の原理である。この同一性と差異性の同一性こそティリッヒ神学の根本構造であり、民主主義の哲学的根拠はその例証なのである。
「同一性と差異性の同一性」などと言われると、「なんじゃ、そりゃ?」と思ってしまうのだが、つまり、他とは全く相容れない個どうしが個でありながら一つに統合された状態を言っているのだと思う。そしてこの状態こそがティリッヒ神学の根本構造だと言っているのだ。

博士の愛した数式の中では、「一人の人間が1つだけ足し算をした途端」と表現されていたのだが、私はここを、「絶対的な一つのもの(つまり私の中では神ということだが、)を加えると、全く相容れなかったものたちが0という無限の存在によって抱き留められる」と表現したいと思う。

神という存在の根柢によって、私達は私達自身でありつづけながら、無限に抱き留められている。


熟したるりんごは木からころげ落つ 神の無限の腕の中へと


関連記事

http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20120416/p1