風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「現代の実存主義は…非存在を存在自体の上位に置いた」(ティリッヒ『組織神学 第一巻』より)

人間のみが自己自身の存在また他のあらゆる存在の限界の彼方を見ることが出来るので、人間のみが存在論的問題を問うことが出来る。…。人間のみがこの立場に立ちうるのは、…。彼は「存在すること」に縛られていない、彼は無を見据えることが出来る、彼は存在論的問いを問うことが出来る。しかし、…。(p235)

 非存在の神秘は弁証法的な取扱いを必要とする。ギリシア語の特質は非存在の弁証法的概念を非弁証法的概念から区別する可能性を供し、前者を me on (メー・オン)、後者を ouk on (ウーク・オン)と称した。ウーク・オンは存在と無関係な「無」であり、メー・オンは存在と弁証法的関係にある「無」である。プラトン学派は未だ存在を有しないが、本質またはイデアと結合する時存在となり得るものをメー・オンであるとした。しかしそれでもなお非存在の神秘は除去されなかった。というのは非存在にはその虚無性にもかかわらず、イデアとの完全な結合に抗する力があると考えられたからである。プラトン主義のメー・オン的質料はすべての異教の根底をなし、また生の悲劇的解釈の究極的基盤をなす二元論的要素を示している。(p237)

 現代の実存主義は深刻かつ徹底した仕方で「無に遭遇」(クーン)した。それは非存在に対してその直接的語義に矛盾する積極性と力とを与えて、非存在を存在自体の上位に置いた。ハイデッガーの「絶滅させる無」は、最後的に不可避な仕方で非存在すなわち死に脅かされている人間の状況を記している。死における無の予想は人間の実存にその実存的性格を附与する。サルトルは非存在の中に無の脅威だけでなく無意味の脅威(すなわち、存在構造の破壊)をも含めている。実存主義においては、この脅威を克服する途はない。この脅威を取り扱う唯一の途はそれを自己の上に取り上げる勇気にある。勇気に!この概観が示すように、非存在の弁証法の問題は不可避である。それは有限性の問題である。有限性は存在を弁証法的非存在に結合する。人間の有限性すなわち被造性は、弁証法的非存在の概念なしには理解されない。(『組織神学 第一巻』「第二篇 存在と神」[ C 存在と有限性 ]《6存在と非存在 》より抜粋)


ここを読んで、ハイデッガーが理解できた気がした。そして西田幾多郎も。
おそらく、私にはもう、こういう人達の思想は必要ない。