風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

心をうしなうということ

山中康裕氏の『臨床ユング心理学入門』(PHP新書の中に、ユングが精神病棟で勤め始めた頃に出会った75歳の女性のことが書かれてある。この女性は、若い頃、靴屋で働いている男性に失恋して発病したのだが、入院以来、靴屋が靴を作る時の動作を繰り返していたという。「彼女は恋人であった靴屋の男性に自分を同化させたまま、自分の時間をストップさせてしまった、それが彼女の奇妙な行動の意味であったことを、ユングは理解したのであった」と、山中氏は書いている。
それほど好きになれる人と出会えたというのは、どんなに幸せなことかと思う。けれど、それを失った時の哀しみは計り知れない。

そんなことを考えていると、偶像礼拝を厳しく戒める聖書の戒めは、人間の心を見通した恵みに満ちた戒めなのだと思えてくる。有限なる者に心を捕らえられる時、それを失えば、人は心も一緒にうしなうことになるからだ。

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。・・。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。(申命記5:7~9)

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。(マタイによる福音書10:37)
これらの聖書の言葉はとても非情な言葉のように思える。けれど、この世のものに囚われすぎては未来に向かって生きて行くことは出来ないのだ。
だけど、傷つくのを恐れて心を閉ざして生きていてもつまらないだけだ。傷ついても、失ってずたずたになっても人を好きになれるほうが幸せだと思う。
好きだという思いも、その人も、全ては神から与えられたのだと知っていれば、なくしても又きっと生き始められる、と私は信じたい。