風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた(ルカによる福音書4:9~13から礼拝説教抜粋)

洗礼を受けられ、救い主としての公の生涯を始められたイエスは、最初に荒野での試練へと導かれていかれた。神の子は、ただ人となってこの世に来たというだけでなく、わたしたちが苦しみ揺さぶられる試練の中に来られ、わたしたちを助けてくださるお方である。

第3の試みは、「神様は本当に信用できるんですか?」という問いかけ。

4:9~11 それから悪魔はイエスエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。
「神を信じているというなら試してみてはどうか」ーそんな風に言われると、私たちは戸惑ってしまう。
私たちは様々なことを試す。試食、試飲、お試しセット、試乗会。間違いのないように色々試して、これは大丈夫だという確かさを求める。その私たちに悪魔は問いかける。神を信じて生きていいのか?それこそ試してみなくていいのか?と。
その悪魔に対して、

4:12 イエスは答えて言われる。「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。
これは一見上手に逃げたかのように見えるが、そうではない。
罪を抱えてしまったわたしたちは神を信じられなくなっている。思いや行為が神の御心に適わないというだけでなく、神を信じるという信仰も罪によって弱くなっている。確かに私たちは神を信じている。けれど、神を信じ抜くことができない。私たちはしばしば第1の試みにも、第2の試みにも負けてしまう。そのわたしたちに代わって、救い主は神を信じ抜いてくださった。十字架の死に至るまで神の御心を信じ抜いてくださったのだ。そして、イエスは神を信じ抜いた先に復活の命があることを証ししてくださった。信じられないわたしたちのために、ご自分の命をかけて証しをしてくださった。だから、これは悪魔の問いを上手に避けたのではない。

さて、悪魔は毎回巧妙な問いで試みてくる。
第3の試みは、私たちが特に気をつけなくてはならない試みである。なぜなら、聖書の言葉を使って問いかけるからである。悪魔が引用したのは、詩篇91:12。

私たちは聖書の言葉を用いるときに、神が言おうとしておられる事柄を正しく聞き取ろうとしなくてはならない。自分達の言いたいことを保証するために神の言葉を利用する場合は、たとえ聖句を使っていても、神の御心とは違うところにいってしまう。私たちは神を自分の都合のために利用してはならない。わたしたちの教会は神の言葉を重んじ、御言葉の学びを大切にしてきた。それは、勉強好きだからではない。知識や教養を豊かにするためでもない。神の御旨を正しく知り、神と共に生きるためである。

これに対して、イエスが引用された聖句は申命記6:16。「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」ー約束の地へ入る前に、モーセが民に語った言葉。

エス聖霊に導かれて荒野を40日歩き回られたのは、約束の地である神の国に入る旅を象徴するもの。この40日が象徴するものは、人生。神の国に入るまでの人生において、わたしたちは3つの試練に遭う。繰り返し遭う。

4:13 悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。
エスは神の言葉を信じて、正しく用いられる。神の言葉が真実であることを示される。信じられない私たちのために、神を信じ抜いてくださった。
わたしたちも、このイエス・キリストによって神の言葉に導かれ、信仰へと、神の国へと招かれている。