風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

御言葉を蓄えるのは・・「わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ」(エゼキエル書3:3)

人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった。彼はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。(エゼキエル書2:8~3:3)
日曜学校などで聖句を暗唱させるというような取り組みをしている教会も多くあると思う。それはそれで良い取り組みだと思うのだが、御言葉を蓄えるというのはどのようにして成されていくものなのだろう、と考える。自分の正当性を保証する武器として聖書の言葉を振りかざすためではなく、自分自身の生を支える糧として蓄えるためには、どのようにすれば良いのだろうか、と。

上記はエゼキエル書の言葉である。神が「食べよ」と言って差し出された巻物には哀歌と呻きと嘆きの言葉が記されていた、と言うのである。にもかかわらず、それを食べると蜜のように甘かった、と言うのだ。これはどういうことか、と思う。
旧約聖書を読むと、厳しい裁きが描かれているように思う。神の民として選ばれた者達が滅びへとひた走っていくような記述が多く出てくる。読んでいて胸の痛む思いをする箇所もある。けれど、その「哀歌と呻きと嘆き」に満ちた言葉を咀嚼して胃袋におさめれば、反逆の民に向かってさえ語る力が得られるというのだ。

更に主は言われた。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」(エゼキエル書3:10~11)
どうしてだろうか。神の言葉、すなわち聖書には哀歌や呻きや嘆きの言葉が記されている。しかし、神の言葉には私達を救うという神御自身の約束が記されているのである。そこに貫いて記されているのは神の私達人間に対する愛だからである。だから、エゼキエルは、そして私達はこれを食べて力を得ることが出来るというのだ。

この神の言葉を食べさせたいと思う。これから長い年月、苦難の世を生きていくための糧として、子ども達に・・。