風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

特別伝道礼拝で樋口進牧師の説教をお聞きして「絶望」について考えた

特別伝道礼拝の少し前に、キルケゴールの言う「死に至る病」って何だったろう?と考えていた。それで、忘れているかもしれないけれど、読んだことのある人に尋ねるのが一番だと思い、尋ねた。答は、「絶望だったと思うけど・・」だった。
私が洗礼を受けた教会は小さい教会だったけれど牧師の子どもが同じ世代だったり、同志社の神学部の学生がいたりして、青年会が盛んだった。そういう中で、「失望はしても良いけれど絶望はいけない」などと耳にしたりした。私は家がクリスチャン・ホームでなく、知識も持ち合わせていなかったので聞くばかりだったのだが、「失望とか絶望というのは、してはいけないとか良いとかいっても、どうにもならないことではないか」と心の中では思っていたのだった。「失望は良いけれど、絶望してはいけない」というのは、キルケゴールの『死に至る病』からの話題だったのだ、と今になって思う。

特別伝道礼拝で樋口進牧師は、「神は生ける者の神であるだけではなくて、死ねる者の神でもあります」と語られた。
福音書には、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(マタイ22:32)と語られたイエスの言葉が記されている。午後の質疑応答の中で、「旧約聖書のどこかに、『神は、死んだ者の神である』と直接的に書かれている箇所がありますか」と尋ねた。「直接的にというのはないけれど、今日のエゼキエルの箇所もそうですが、旧約聖書を通して「生ける者の神であるだけでなく、死ねる者の神でもある」と示されている」という応答だった。
私はこの言葉をお聞きして、ペテロの第一の手紙の御言葉を思い起こしていた。

キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。…。
こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。(ペテロの第一の手紙3:18~20)


死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。(ペテロの第一の手紙4:6)

この特別伝道礼拝の説教をお聞きして、私は、絶望してもいいんだ、と思ったのだった。神は、絶望している者、死んだ者のところにもキリストをお遣わしになり、御言葉を語り聞かせてくださる。世界を創り、人を造り、命を吹きこみ、生きる者となるための言(ことば)を。

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。(ヨハネによる福音書1:1~4)


見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。(マタイ福音書28:20)