風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子8

葛原妙子の「愛されず 人を愛さず」の短歌は、歌集『薔薇窓』の「氷壺」の中で、三部に分けられた中間のひとまとまりに入っている。
この三つのまとまりの、最初のまとまりの中には、次のような歌が置かれている。

雪烟を卷ける岩山よこたはる巨人アダムの骨にあらじか

やはり聖書的観点から見れば、私達人類を罪の世界に陥れたアダムの存在は大きいと言えるのではないか。罪に堕ちたという事実は、目を背けても背けても、(その後の私達の目に)死してなお横たわる巨大な骨のように見えてくるものなのではないか。雪烟のように白い骨、この歌の「骨」という言葉からは、男のあばら骨から造られた女、エバの姿も私には立ち上がって見えてくるように思われる。エバが取って渡した実をアダムも食べて、私達は罪に堕ちたのだ。


中間のまとまりの中で「愛されず」の歌の後から最後の歌までの間に収められている歌は、目の前で繰り広げられる一つのつながりを持ったドラマのようだ。

火傷(くわしやう)に塗るあぶらの 滴(したたり) 無褚なる若き腕(かひな)をラムプに置きて
小屋しばらく梁(うつばり)を組みし洞(ほら)となる 闇に磨れゐる雪片のむれ
強烈なる磁力のさまに隔れりテラスに立てる異國の男女(なんにょ)
暗き夜戀のおこなひに仄明り小さなる死はともなはざるや
對話なき者は狂はむ積雪を割りて流るる鄢き川見ゆ

聖書は、「罪がこの世にはいり、罪によって死がはいってきた」(ローマ人への手紙5:12)と書いている。この歌の並びを見ていると、妙子が、罪に堕ちて愛し合うことができなくなった私達が愛し合おうとするとき、「その行為には小さな死が伴いはしないだろうか」と詠っているように、私には思える。


そして「氷壺」の中の最後のまとまりには、次のような歌が入っている。

足跡の絶えたる雪を踏みゆきてうごかぬ鈍きみづうみを見る
懲罰のごとく雪積み閉ぢゐたり氷の壺となりしみづうみ

ここまで読んで、私は、もう一度「愛されず 人を愛さず」の歌へ引き戻されたような感覚を覚える。

この最後のひとまとまりの出だしが、
降りしづむ雪の波状は野山よりわが寢臺の上を掩へる
熟睡(うまい)せる旅人ひとり垂れてゐる毛布は遠き雪野につづく
であり、最後の一首が、
わが生に悲劇あらざる晴れし町穂高(ね)の裏吹雪ける刻(とき)となっている。

罪に堕ちた世界をドラマのように詠い、雪が自分の寝台の上をも掩い尽くそうとする様を詠い、熟睡する者の上にかけられている暖かい毛布も罪の世界を象徴する雪野に続いて行く、と詠う。聖書的な罪をこのように感じ取りながら、最後、「わが生に悲劇」はないと妙子は詠う。どんなにこの世の中が吹雪いているときも、「私の生には悲劇のない晴れた町が(常に)あった」と詠うのだ。この世界に愛はないと感じても、それを肯定して生きて行くことは出来ないのだ、と思わされる。又、否定することで、否定したものを一層際立たせているようにも思われる。すなわち、愛せないという罪を。


ところで私は、「足跡の」と「懲罰の」の間に置かれた次の一首がとても好きだ。

朴の幻影 辛夷(こぶし)の幻影 音絶ゆる湖岸の雪の吹溜りより

無褚=無頼
鄢き=黒き