風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子7

愛されず 人を愛さず 夕凍みの硝子に未踏の遠雪野みゆ 『薔薇窓』


聖書には「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)と書かれている。この前の26節では、神は(自分に)「似せて、人を造ろう」と言った、と書いてある。神に似せて造られたとはどういうことだろうか?
新約聖書ヨハネの第一の手紙4章16節では、「神は愛である」と言われている。又、福音書の中でイエスは、「神を愛すること、隣人を愛すること、この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:30〜31)と言い、「敵を愛し、・・。父なる神が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ6:35〜36)と言っている。このように、聖書の中では「愛する」ということが最も大事なことがらとして言及されている。そう考えると、神に似せて造られたとは、愛する者として造られたということに他ならないのではないかと思える。愛である神は、ご自分に似せて、愛し合う者として人間を造られたのだと。

けれど、人は罪に堕ちたのだ。アダムの故に、エバの故に、罪に堕ちて愛し合うことが出来なくなった。それ故、聖書はこう言うのだ。「お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ」(ホセア書6:4)と。
私たちの愛は持続不可能な有るか無きかのような実に心許ない愛でしかない。けれど、それを認めることは容易なことではないだろう。愛の神に似せて造られた私たちは、愛のないところでは生きてはいけないのだから。私たちは「愛している、愛されている」と思いたい存在なのではないか。


葛原妙子のこの短歌はどうだろう。何と冷え冷えとしていることかと思う。愛されず、人を愛さぬ状態を自覚して生きるということは、未踏の地へ踏み入ることではないのか、と思う。妙子自身は暖かな部屋の中にいるのかもしれない。けれど、凍った硝子の向こうに広がっている雪原は、まるで愛のない現実の世界を映し出しているかのようだ。


私は、葛原妙子の家庭環境については、検証するための資料を持ち合わせてはいない。そして、検証するつもりも全くない。本当の愛を追い求める者は、どんなに家族に恵まれていようと、周りの者に愛されていようと、それで満たされることはないのだから。