風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

葛原妙子5

悲傷のはじまりとせむ若き母みどりごに乳をふふますること 
十字架を組みたる材はなにならむ荒れたる丘の樫のたぐひか
風媒のたまものとしてマリヤは蛹のごとき嬰児を抱(いだ)きぬ

葛原妙子の歌集『原牛』の中の「風媒」の項で、上の三首がこのような順に並べられている。これは非常に興味深いことだ。
このように並べられた最初の一首には、マリアの名もイエスやキリストの名も出ては来ない。しかし、下にこの二首が連なることで明らかにキリストの降誕が暗示されていると分かる。そのキリストの降誕は、まっすぐに十字架の死へとつながっている。生まれたイエスにマリアが乳を含ますことは、十字架の死という悲傷の始まりなのだと読み取ることができる。

お前たちは葉のしおれた樫の木のように 水の涸れた園のようになる。(イザヤ書1:30)
彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる。(イザヤ書61:3)

三首目の「風媒のたまもの」という言葉をキリスト教徒が読めば、次のような聖書の言葉を思い浮かべるかも知れない。

天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・」(ルカによる福音書1:35)
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。・・」(マタイによる福音書1:20)

ここに書かれている「聖霊」という言葉は、ヘブライ語ギリシャ語では「風」という意味を持つ。そのことを妙子が知っていたかどうかは定かではないが、この聖書の言葉は何度も目にしていただろうと思われる。
面白いのは、「風媒」であれば、「種子」や「果実」あるいは「蕾」を連想しそうなものなのに「蛹のごとき」と言っているところだ。嬰児はもう生まれているはずなのだ。それなのにその嬰児を蛹に喩えるというのはどういうことだろうか。
蛹というのはまだ本来の働きをしていない状態という意味ではないだろうか。救い主として生まれてきたイエスはまだ赤ん坊で本来の働きをすることができない、というような・・。これから成長して、成人し、宣教活動に入り、そして十字架上で死ぬ。キリストの本来の働きというのは十字架上で死ぬことに他ならない。死んで初めて蛹から成虫へと変わるのではないか。ここには復活という概念が含まれている。しかし、妙子が頭に置いていたのは、十字架上でのイエスの死までであろうと私は思う。

歌を作るというのはどういう感じだろうか。歌は、どのようにして生まれてくるのだろうか。もちろん言葉を吟味し何度も推敲を重ねて作られる場合もあるだろう。しかし、頭では分かっていないが無意識のうちに一つの言葉を選ぶということがあるのではないだろうか。妙子のこの「風媒」の歌は、そのようにして生まれてきたもののように私には思える。

   誕 生
絹よりうすくみどりごねむりみどりごのかたへに暗き窓あきてをり
                葛原妙子 歌集『葡萄木立』より