風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「とぶように・・・」長田大三郎=詩

 

この詩を初めて目にしたとき、なんて苛酷なのか、と思った。

 

けれど、今は違う。

きっと、飛びつづけることで、慰められるのだ、と思う。

 

 

 

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。(マタイによる福音書5:4)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「地は混沌として、闇が深淵の面にあり」(創世記1:2)

創世記1章1−5節 「光あれ」礼拝説教 (抜粋)

1節の「初めに、神は天地を創造された」という宣言の後、2節以降に具体的な創造の御業が述べられています。まず、2節の言葉「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とありますが、これは神さまが最初に創造された天地の様子です。混沌という言葉は旧約聖書において詩編イザヤ書エレミヤ書で用いられています。特にエレミヤ書4章23節に「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし空には光がなかった」とあり、その次に「わたしは見た。見よ、山は揺れ動きすべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり町々はことごとく、主の御前に主の激しい怒りによって打ち倒されていた」という言葉が続いています。これはエレミヤの預言ですが、イザヤ書と同様にユダの民の罪に対する神さまの激しい怒りによる裁きが語られている箇所です。人々の罪に対する神さまの激しい怒りによる裁きの結果、混沌として、形がなく虚しい状態しか存在しなかったと言うことです。従いまして創世記1章2節は人間の罪に対する神の怒りによってもたらされた虚しい悲惨な世界と同様のものが、神さまによって最初に創造されたということであります。

しかし、なぜ人間の罪に対する神さまの怒りが、創造の最初に語られているのか、疑問に思います。それは、この創世記の1章がどの様な経緯で何時、何処で書かれたかという事と深く関わっています。創世記1章が描かれたのは、紀元前6世紀頃と言われています。それはバビロン捕囚期の時です。ここで少し、イスラエルの歴史の概要を振り返ります。(略)エレミヤもイザヤもバビロンによってエルサレム神殿は破壊され、領土はことごとく荒らされ、民はバビロニアへ連行され、国が混沌とした悲惨な状態に追い込まれることを預言しました。その原因は長年に亘って数々の主なる神さまに対する罪への怒りと裁きであるのだと言います。その罪というのはイスラエルの民による偶像礼拝、異教の神を拝むという背信行為です。エジプトで奴隷であった民を救い、約束の地である乳と蜜の流れる地であるカナンを与え、王を立て、国家を築くことを許し、常に導き祝福して下さっている神さまに背を向け、裏切り、異国の異教の神々やその神々の偶像を拝み、また人間の欲望や富や財産を満たすことを何よりも優先したのです。神の霊に従わず肉の思いに従ったのです。神さまはその様なイスラエルの民の罪を裁かれたのであります。そして、彼らは国を失い、約束の地は混沌となったのです。これが紀元前6世紀のバビロン捕囚期のイスラエルの民の現実でした。ここで、言えることとして、創世記1章の著者が描いているのは、この世界ができた時の事、自然科学における宇宙や地球の誕生が如何なる経緯であるか描こうとしているのではなく、今、目の前で起こっている現実を描いているのであり、それは国がことごとく破壊され滅ぼされ混沌とし、不気味な闇に覆われ、そこには神の霊、即ち暴風が吹き荒れているという、深い絶望を描いているのです。混沌や闇や深淵や暴風は神さまに敵対した罪によってもたらされたものです。

 

(略)

 

話を2節に戻しますと、バビロンによる滅亡と捕囚の現実を前にして、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」、即ち破壊と混沌、そして真っ暗な絶望があり、暴風が吹き荒れている世界であるのですが、それは神さまの意志によって創られたものであり、そこで人間として生きていくことが神さまの御心であるのだ、というのが1節と2節が語っていることであります。当然、神さまの創造はそれで終わる訳では有りません。3節以下に次々と創造の御業が展開されていきます。
「『光あれ。』こうして、光があった」と3節に記されています。混沌や闇や深淵や暴風の世界の中に、神さまは光を創られたのです。

 

(略)

 

以上述べてきましたことより、旧約聖書は神さまが混沌とした世界に秩序と美しさをもたらすために、イスラエル民族を通してなさった神さまの働きの物語であるということが分かります。そして旧約聖書には新しい指導者が来て新しい創造をなさって下さるという希望を語っています。

全文は→https://shinguchurch.blogspot.com/2022/05/7-115.html

 

 

上にリンクさせて頂いた説教を拝見して、子どもの頃のことを思い出した。

 

 

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カラマーゾフの兄弟』は心情に共鳴しながら一気に読んだが、描かれている世界は私の住む世界とかけ離れていた。
しかし『罪と罰』は全く共鳴できないにもかかわらず、子どもの頃に見ていた世界そのものだったのだ。

(略)

貧乏は不幸の大きな要因だろうが決定打ではないということだ。
人間そのものが悲しいのだ。そういう世界を見てきた、と思う。

 

デリダ 脱構築と正義』で、アブラハムは神の命令に応じるという自分の決定を、妻サラにも、僕エレアザールにも、イサク自身にも明かさない」と記され、「絶対的責任の、極限の証しの物語であるイサク奉献は、徹頭徹尾、父と息子、男性的形象(父なる神、アブラハム、イサク)の物語であって、サラをはじめとして女性についてはなに一つ語られない」と記され、「もしそこに一人の女性が介在し、重要な役割を果たすとしたら、この苛酷で厳格な責任の論理のなかにも、なんらかの変様がありうるのではないか? デリダはこのように問いかける」と語られていた。

 

「この人は、お酒ばかり飲んで、私に何も話してくれないで自分一人でなんでも決めてしまうんです」と、叔父は、叔母から父母に訴えられていた。

子どもの頃から、心が通じ合わない世界を周りに見てきた。

 

神を知らない世界は、今も旧約の混沌と闇の中に置かれている、と思う。

 

御言葉が語られなければ、神を知ることは出来ない。

 

 

 

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 わたしたちの命は、神の祝福によって造られ、キリストの救いの業によって神の国へと導かれるのです。

 わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。

 わたしたちは神のもとから来て、神のもとへ帰るのです。

 わたしたちは行く宛てのない人生を生きているのではなく、帰るべき家へと、わたしたちを愛し続けていてくださる方の元へと続く人生を生きているのです。

 

 

 

 

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神を求める思いというのは、「秩序」を求める思いに等しい。つまり私は「混沌」を恐れていたのだ。私の中で、「死」は「混沌」とイコールであったように思う。

 

 

 

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そしてこの神の創造の業は命の創造であり、生きる秩序の創造です。

(略)

神は命を創り、そしてその命を救うために罪を裁き滅ぼす方です。その神がおられる、救いの御業をなしておられる、この神の許にこそ命と未来がある、これを証しするためにわたしたちは召されているのです。

神は、わたしを信じて生きて欲しい、わたしと共に生きて欲しい、あなたがそうすることはわたしの救いの御業にとって大切なんだと、語りかけておられるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

聖霊降臨節前第1主日礼拝説教抜粋

聖霊なる神」

 

 2022年5月29日(日) 聖霊降臨節前第1主日

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙 3章16節~19節

 

 

1.イエス・キリストの昇天

 

(略)

 

2.イエスキリストの昇天はわたしたちを神の国へと導く救いの御業

 

(略)

 

 わたしたちの命は、神の祝福によって造られ、キリストの救いの業によって神の国へと導かれるのです。

 わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。

 わたしたちは神のもとから来て、神のもとへ帰るのです。

 わたしたちは行く宛てのない人生を生きているのではなく、帰るべき家へと、わたしたちを愛し続けていてくださる方の元へと続く人生を生きているのです。

 イエス キリストの昇天は、ただこの世を離れて、神の国に戻られたというのではなく、天に上げられるということを通して、常にわたしたちと共に生き、わたしたちを神の国へと導く救いの御業なのです。

 

 3.聖霊なる神

 

 さて、聖霊なる神は、わたしたちを救い主イエス キリストに結び合わせ、キリストの命、キリストのすべてで、わたしたちを満たすために遣わされました。聖霊なる神によってイエス キリストと一つにされたわたしたちは、もはや何ものによっても支配されることはありません。イエス キリストで満たされている今は、死もわたしたちを支配することはできなくなったのです。

 

(ローマの信徒への手紙 8章38, 39節)「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 

 また聖霊は、イエス キリストから、わたしたちへという方向で、恵みを与えるだけでなく、わたしたちからイエス キリストへ、そして父なる神へと、結び付けてくださいます。

 

(略)

 

 4.神と共に生きる命に生かされる

 

 キリスト教の中心は、「神と共に生きる命」です。神と共に生きるとき、命は滅びへ向かうことなく生きることができ、喜びをもって生きることができます。神と共に生きるとき、すべての命が神の愛の中で、共に生きることができます。

 

 けれど、罪がわたしたちを、この恵みから引き離してしまいました。

 しかし、父なる神は、罪を抱えてしまったわたしたちの救いを決意されたのです。

 そして、子なる神(父の独り子)イエス キリストによって、罪の贖いの業がなされました。

 その神の救いの御業、死を打ち破って復活されたイエス キリストの命の恵みに、聖霊なる神が与らせてくださるのです。

 キリストと一つに結び合わせ、キリストを通して父なる神と結び合わせてくださいます。

 父・子・聖霊の三位一体の神の恵みに包まれて、わたしたちは神と共に生きるものとされ、本当の命の喜びを味わうものとされているのです。

 

全文は→https://fruktoj-jahurto.hatenablog.com/entry/2022/05/29/133947

 

 

 

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今日の花



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スティッキオ(フィッシュハーブ、フェンネル)の塩麹漬けを・・

スティッキオの塩麹漬け。

 

腸活ミニ野菜で届いたスティッキオはフェンネルの仲間らしい。確かに香りもスーっとフェンネルの香りがする。

フェンネルというのは魚に添えられるハーブだが、種子はディルなどと一緒にピクルスの漬け込み液に使われたりする。

若い頃、株元の肥大するフローレンスフェンネルを一株栽培していて、それで炊き込みご飯を作ったこともある。

しかし、このスティッキオは肉質がフローレンスフェンネルのように柔らかくはなかった。それで、塩麹でしっかり丸一日漬けて、細くスライスしスモークサーモンと合わせることにした。セロリの茎などのように小口に切ってスープの浮き実にしても良いかも知れない。

 

 

スティッキオのサーモンマリネ。

 

 

一つ注意をしておきたいのが、妊娠中は摂り過ぎない方が良いということだ。

 

「NARDケモタイプ精油事典」では、フェンネル(Foeniculum vulgare)精油禁忌事項として以下のように記されている。

 

妊産婦には使用しない。ホルモン依存型癌疾患、乳腺症などには使用しない。
(trans-アネトールにエストロゲン様作用があるため。)

長期間、継続的に使用しない。肝臓組織に変色を起こす危険がある。
(trans-アネトールやフェンコンを含むため。)

乳幼児、妊産婦、授乳中の女性、てんかん患者には使用しない。
(ケトン類に神経毒性があるため。また子宮の筋肉収縮作用もあり投与量が多いと流産の危険性もあるため。)

 

また、注意事項としては、

 

用法用量を守って使用する。多量に使用すると極度の鎮静作用を起こし、血圧低下や呼吸困難、神経麻痺状態となる可能性もあるため。
(trans-アネトールを多く含むため。)

 

と記されている。

 

もちろん、これは蒸留で濃縮された精油についての記載であるが、頭の隅においておくのが良いと思う。

 

有用なものは、毒性も高いと言える。

 

 

稲村真耶さんの「呉須染鳥文桔梗皿」に盛り付けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

自覚することの難しい「無自覚の罪」 ー ドストエフスキー『罪と罰』から

自分の罪というのはそれぞれに与えられる出来事を通して自覚されるものだろうと私は考えていて、私自身の「罪」についてはこれまでにいくつかの出来事を通して自覚しているのだが、ここでは、自覚することの難しい「無自覚の罪」について考えてみたいと思う。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』のタイトルがどういったことを表そうとしているのか、実のところ私はまだ理解できていない。

「罪」に対して「罰」がくだるというような単純なものではないだろう、と漠然と思いつつ、よく分からないというところで留まっている。

 

けれど、ドストエフスキーが考えている「罪」は、エピローグの「ラスコーリニコフの見た夢」に描き出されている。

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しかし、今回はそれとは違う「罪」について書きたいと思う。

良かれと思って為した「罪」について。

良かれと思って成したことが「罪」であったと自覚するのは、私たちにとっては、とても難しいことだろうと思われる。

myrtus77.hatenablog.comわが身のため、わが身の安楽のためなら、いや、われとわが生命を救うためにでも、自分を売ったりはしないくせに、いざ他人のためとなると、こうして売ってしまうんだ。愛し、尊敬する人のためには売ってしまう!ほら、これが手品の種あかしさ、兄のため、母親のためなら売る! なんでもかんでも売ってしまうんだ! ああ、人間というやつは、こういう場合になると、自分の道義心さえおし殺して、自由も、安らぎも、良心さえも、いっさいがっさい、古着市場へ持ちこむものなんだ。自分の一生なんか、どうとでもなれ! ただ愛する人たちがしあわせになってくれさえすればいい。そればかりか、ジェズイット教徒そこのけに、自分なりの小理屈までひねりだして、目先だけにせよ、自分を安心させる。これでいいんだ、正しい目的のためにはこれでなくちゃいけないんだと、自分に言いきかせる。(略)この芝居のいちばんの主役は、まちがいなく、かく言うロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフなんだ。まあ、それもいいさ、彼を幸福にしてやることも、大学をつづけさせることも、法律事務所の共同経営者にしてやることも、生涯困らぬようにしてやることもできるんだからな。それに、ひょっとすれば、そのうちには大金持ちになって、名誉と尊敬を一身にあつめ、一流の名士として生涯を終えるかもしれない! だが、母さんは? なに、問題はロージャなのさ、だいじなだいじな総領息子のロージャ! こういう息子のためなら、あんな立派な娘を犠牲にしたって、悪かろうはずはないってわけさ! ああ、なんと愛すべき、まちがった心だろう!(岩波文庫罪と罰 上』p89~96)

 

これは、ラスコーリニコフが老婆を殺害する前の部分である。

 

myrtus77.hatenablog.comしかし、この最後の言葉を絶叫しながら、彼は思わずドゥーニャと視線を合わした。そして、その視線にこめられた自分ゆえの苦痛のあまりの大きさに、心ならずもわれにかえった。彼は、何を言おうと、やはりこのふたりの哀れな女性を不幸にしたのだと感じた。(岩波文庫罪と罰 下』p345)

(略)

『しかし、おれにそれだけの値打ちがないのだとしたら、どうして彼らはおれをこんなに愛するんだろう! ああ、もしおれがひとりぼっちで、だれからも愛されることがなかったら、おれだってけっしてだれも愛しはしなかったろうに! こんなことは何もなかったろうに!(p348)

 

「こんなこと」とは、金貸しの老婆の殺害のことだろう。

そもそも貧しいところに、妹ドゥーニャがラスコーリニコフのために身売り同然の結婚をすると言い出したことが殺人へと拍車をかけた。

 

ここで描かれているのは、ラスコーリニコフの妹ドゥーネチカの「罪」である。

兄のために良かれと思って成そうとしたことが、紛れもなくその兄ラスコーリニコフを高利貸しの老婆殺害へと追い詰めるのである。

 

いちばん困ったのは、ドゥーネチカが昨年あの家に家庭教師として住みこむとき、百ルーブリというお金を前借りし、毎月の給料から差しひいて、返す約束になっていたことで、そのために、この借金の片がつくまでは、勤めをやめるわけにいかなかったことです。あの子がそのお金を受けとったのは(だいじなロージャ、いまだからすっかり説明できるのですが)、何よりまず、おまえに送る六十ルーブリを都合しようためでした。当時おまえがたいそう入用だとかで、昨年お送りしたあのお金です。あのときは、ドゥーネチカの以前の貯金をおろしたなどと噓をつきましたが、実はそうでなかったのです。でもいまは、おかげさまで、思いがけず万事が好転してきましたし、ドゥーニャがおまえをどんなに愛しているか、あの子がどんなにやさしい心をもっているかを知ってもらうためにも、すっかり本当のことを書きたいと思います。

 

(略)

 

いいですか、いとしいロージャ、実はドゥーニャがある方から申し込みを受け、もう承諾の返事もしてしまったので、とり急ぎそのことをおまえに知らせたいと思ったわけなのです。こんどのことは、おまえに相談もせず運んでしまいましたが、だからといって、私に対しても、また妹に対しても、それを根にもつことはないと思います。(岩波文庫罪と罰 』p70、77)

 

「罪? なにが罪だ?」ふいに突きあげてきた狂暴な怒りにまかせて、彼は叫んだ。「ぼくがあのけがらわしい、有害なしらみを、だれにも必要のない金貸しの婆ァを、殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい? ぼくはそんな罪のことは考えない、それを洗い浄めようなんて思わない。どうしてみなは寄ってたかって、「罪だ、罪だ!」とぼくを小突きまわすんだ。いま、ぼくにははっきりわかったよ、ぼくの弱気がどんなにばかげたものだったか、いまやっとわかったんだ、この必要もない恥辱を受けに行くいまになって! ぼくが決心したのは、ぼくが卑劣で無能だったからだけなんだ、それからあの・・・・ポルフィーリイがすすめたように、それが有利になるからだけなんだ!・・・・」

「兄さん、兄さん、なんてことを言うの? だって兄さんは、血を流したんじゃない!」ドゥーニャは必死になって叫んだ。(岩波文庫罪と罰 』p343~344)

 

ドゥーネチカは兄の老婆殺害を罪として自首を勧めるが、しかし、ドゥーネチカ自身の「罪」への自覚は、物語の最後まで描かれないで終わっているように見える。

 

これは、そのようにドストエフスキーが意図した展開であるかもしれない。

 

良かれと思って為したことを「罪」として認めるというのは、私たちにとって容易なことではないのである。

 

女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。彼女は実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えた。(創世記3:6 聖書協会共同訳)

 

私自身も良かれと思って多くの罪を犯してきた。その中には、今なお気づいていない罪もあるかもしれない。

しかし、

もし自分には罪がないと言うなら、それは、自分のほんとうの姿から目をそらしているのであって、真理を受け入れようとしない証拠です。(ヨハネの手紙Ⅰの1:8 リビングバイブル)

 

 

 

ここの記事は、祈り会での青年の祈りをお聴きして、纏めようと思ったものです。