風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「エジプトの初子を討った方に感謝せよ」(詩編136:10)

こちらに来てから、教会員の要望もあって、祈り会ではローマの信徒への手紙の初めからをやっていた。それが終わって、詩編の続きへと戻った。

 

詩編135編、136編には、出エジプトを振り返って「エジプトの初子を討った方に感謝せよ」(詩編136:10 新共同訳)という言葉等が記されている。

 

エジプトの初子を討ったのは、神である。

 

聖書にそんな酷いことが記されているのか、と思う人もいるかもしれない。キリスト教徒の中にも、そこの部分は受け入れられないと思う人がいるかもしれない。

 

ああ、アリョーシャ、俺は神を冒瀆してるわけじゃないんだよ! やがて天上のもの、地下のものすべてが一つの賞讃の声に融け合い、生あるもの、かつて生をうけたものすべてが『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道が開けたからだ!』と叫ぶとき、この宇宙の感動がどんなものになるはずか、俺にはよくわかる。母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱き合って、三人が涙とともに声を揃えて『主よ、あなたは正しい』と讃えるとき、もちろん、認識の栄光が訪れて、すべてが解明されることだろう。しかし、ここでまたコンマが入るんだ。そんなことを俺は認めるわけにいかないんだよ。(略)
俺だって赦したい、抱擁したい、ただ俺は人々がこれ以上苦しむのはまっぴらだよ。そして、もし子供たちの苦しみが、真理を買うのに必要な苦痛の総額の足し前にされたのだとしたら、俺はあらかじめ断っておくけど、どんな真理だってそんなべらぼうな値段はしないよ。結局のところ俺は、母親が犬どもにわが子を食い殺させた迫害者と抱擁し合うなんてことが、まっぴらごめんなんだよ! いくら母親でも、その男を赦すなんて真似はできるもんか! 赦したけりゃ、自分の分だけ赦すがいい。母親としての測り知れぬ苦しみの分だけ、迫害者を赦してやるがいいんだ。しかし、食い殺された子供の苦しみを赦してやる権利なぞありゃしないし、(新潮文庫カラマーゾフの兄弟 上』p615~617)

 

カラマーゾフの兄弟』のイワンがここで語っているのは、神が何の罪もない子ども達が虐殺されていくのを許しているのだとしたら、そんな神は認められないということなのだが、詩編で語られているのは、神ご自身がイスラエルの民をエジプトから導き出すためにエジプト人の初子を討ったということなのだ。

私はイワンに肩入れする人間なのだが、詩編のこの言葉を読んで、「罪もない子どもを殺すなんて酷い神だ」とは思わないのである。

 

渦中にあって苦しむことのない者は、赦さなければいけないと簡単に言う。

渦中にあって苦しむことのない者は、罪もない初子を討つなんて酷い神だ、と簡単に言うのである。

 

口語訳では詩編のこの後の部分は以下のように続いている。

「アモリびとの王シホンを殺された者に感謝せよ」(136:19)

「バシャンの王オグを殺された者に感謝せよ」(136:20)

神が敵の王を殺して救い出してくださったことに感謝しているのだ。

 

私たちの生きるこの時代は、導き出してくださる方を見失って、苦しみの中に蹲ったままでいるのである。カラマーゾフのイワンの生きる時代を私たちも未だ生きているのだ。

 

しかしイワンは私たちを神から遠く引き離す。

 

そのような私たちに本物の慰めを与えてくれるのが、神の言葉なのである。

主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。

主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。(詩編27:1)

 

昼は、もはや太陽があなたの光とならず、夜も月が輝いてあなたを照さず、主はとこしえにあなたの光となり、あなたの神はあなたの栄えとなられる。

あなたの太陽は再び没せず、あなたの月はかけることがない。主がとこしえにあなたの光となり、あなたの悲しみの日が終るからである。(イザヤ書60:19,20)