風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

特別伝道礼拝説教「わたしはあなたと共にいる神」(イザヤ書41:8~10)

「わたしはあなたと共にいる神」(イザヤ書41:8~10)ー特別伝道礼拝説教より

 わたしたちは、それぞれ日々の生活を懸命に生きています。その中でわたしたちは自分たちでは、どうしようもない事態に出くわすことがあります。もちろん、楽しく嬉しい思いをすることもありますが、苦しく、悩ましい経験をすることがあるのです。
 人間関係に苦しんだり、悩んだり、はたまた、様々な出来事に巻き込まれたり、病気や怪我に苦しんだりするとき、わたしたちはどうしてそのようなことが起こったのかと考えこんでしまいます。
 例えば、自分が悪かったのだろうかと考えたり、他人が悪かったのだろうかと考えたり、はたまた、運が悪かったのだと考えたりするのです。ただ、簡単に問題が解決するときは良いのですが、どうにも理解しがたく、受け入れがたい時、苦しくて仕方がない時、わたしたちは前に進めなくなります。
 そのような時、人によっては怒ることで、それを力に変え、前に進もうとするかもしれません。また、運命なのだと受け止め、仕方がないと言い聞かせる人もいるでしょう。
 そうではなく、現実を受け入れられずに、沈み込んでしまう人もいるかもしれません。では、本日の箇所で、語りかけられているイスラエルはどうだったのでしょうか? 彼らはこの時、自分たちの住んでいた国を追われ、遠い国に連れて来られていました。
 それは彼らが望んだことではありませんでした。だから、彼らの中には怒った人もいたかもしれません。連れてきた相手を憎んだりした人もいたでしょう。また運命だと受け留めようとした人もいたかもしれません。
 でも、聖書を読んでいくと、彼らの多くは、自分たちに降りかかった出来事の責任は自分たちにあると考えていたようです。つまり、自分達のせいで、このような不幸な出来事が起こったのだと理解したのです。
 彼らは神さまを信じていましたから、自分達の置かれた状況を、単純に運命だとは思いませんでした。国が崩壊し、住む場所は奪われ、全く知らない国に連れて行かれたことを、神さまとの関係から理解しようとしたのです。
 つまり、彼らは自分達がこのような目にあっているのは、神さまから下された罰だと理解したのです。自分達が神さまの言いつけを守らず、かけ離れた生き方をしてしまったから、神さまは罰を下されたのだと思ったのです。
 わたしたちだって、自分の身に不幸が起こると、神さまに見放されたと思ったり、神さまから罰が与えられているのだと思ったりします。ついには、神さまは自分のことなど、どうでも良くなってしまったのだとさえ思うことがあります。
 本日の箇所の少し前40章27節にはこのようにあります。「ヤコブよ、何ゆえあなたは、『わが道は主に隠れている』と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは『わが訴えはわが神に顧みられない』と言うか」。
 彼らは自分たちに降りかかってきた状況に打ちのめされ、神さまに対する信頼を失いかけているのです。彼らは、わたしたちは神さまから罰を受けている。神さまに嫌われてしまった。
 だから、神さまはわたしたちに目も留めてくださらないし、神さまに祈り訴えても、聞いてくださらないのだ。彼らは神さまから見離されたと思っていたのです。それはある意味で当然だと思えます。
 けれども、そのようなイスラエルに向かって、神さまはご自分が彼らに助けを与えることを示されます。それが、今お読みした40章27節から後の部分から、本日与えられた箇所まで続いているのです。
 本日与えられた箇所には、「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」との呼びかけがなされています。
 神さまは、イスラエルが自分たちのことを見てくれないとか、祈りを聞いてくださらないと言っても、あきれ返ったり、見捨てたりせずに、「あなたはわたしの僕だ」と呼びかける方だということがここに示されています。
 ここで神さまは「あなたはわたしの僕だ」と語っていますが、聖書を読むかぎり、神さまの僕になったのはイスラエルだけです。ただ、イスラエルは、わたしたちは過去において神さまの僕であったという思いになっていたのだと思います。
 けれども、神さまは、そのようなイスラエルに向かって、今も『あなたはわたしの僕だ』と呼びかけてくださっているのです。世界の中からイスラエルを選び、ご自分の僕としてくださったことは今も変わらないというのです。
 神さまはもう少し先の箇所43章1節で、イスラエルのことを「あなたはわたしのものだ」とまで言っておられます。そこにはわたしは決してあなたを離さないという神さまの意志が示されています。
 考えてみますと、神さまは、今日の箇所にあるように、地の果てにあるイスラエルを導き出し、呼び出した方です。地の果て、それは世界の中心ではないということを意味しています。
 つまり、栄えていない場所であり、みんなが価値があるとは思っていない場所、みんなが目を留めることもないちっぽけな場所。そのような場所にいたイスラエルに神さまは目を留め、呼びかけ、ご自分の僕として下さったのです。
 本日与えられた聖書の箇所の少し先の14節ではイスラエルは「虫に等しい」とさえ言われています。また、他の箇所では、世界の中で最も数が少ないとも言われています。そのようにイスラエルは取るに足らない存在だったのです。
 けれども、神さまは、そのような小さな小さな存在、世界の片隅にいたような存在に目を留め、声をかけ、愛して下さった方です。宝の民とさえ呼んでくださったのです。ここで神さまはそのことを思い起こしなさいと言っているようです。
 先ほど見たように、イスラエルは国を失うという、大変苦しく、また悲しい状況の中にありました。人間的に見るならば、イスラエルは負け犬です。弱く、無力だから、国を追われたのです。
 そして、イスラエル自身もそのように自分たちのことを思っていたのです。しかも、神さまは自分たちに罰を与え、見捨てられた。そう思ったとき、彼らには希望など見えず、闇の中にあるように思えたことでしょう。
 けれども、神さまはそのようなイスラエルに向かって、あなたはわたしにとって大切な僕なのだと声をかけてくださる。神さまは、イスラエルに向かって、たとえこの世においてあなたは価値ある存在だと言われなくても、あなたが自分に自信を持っていなくても、わたしにとっては大切な僕なのだと仰るのです。
 わたしたちは、自分が出来るか出来ないか、強いか弱いか、人と比べて、あれがどうだ、これがどうだと思います。そうして、自分には生きる価値があるかどうかを判断しようとします。
 でも、神さまはわたしたちと違う見方をされるのです。先ほど、見たように、イスラエルは、世界の中で最も数が少なく、虫に等しいとさえ言われていたのに、神さまはイスラエルを選んだのです。それはなぜでしょうか? 
 普通なら、何らかの価値があるから選ばれるのではないでしょうか? 何か特別な才能や技術を身につけているとか、頭がいいとか、美しいとか、かっこいいとか、そういったことがあるから選ばれるはずです。
 けれども、神さまはご自分の愛を注ぐために、そのようなことを判断の基準にはされないのです。神さまは、この世と全く違う基準を持っておられるのです。神さまは小さい者、弱い者、苦しむ者に目を留めて下さる方です。
 神さまは、憐れみの神、愛の神なのです。イスラエルはそのことを知っていたはずなのに、見失ってしまったのです。考えて見ますと、イスラエルは、一時、大きな国になり、栄えていました。
 そこで彼らは、自分達には、このように国を大きくする能力があるのだと勘違いをしたのだと思います。そして、それこそ神さまが自分たちを選んだ理由だとさえ思っていたのではないでしょうか?
 つまり、自分達には選ばれるだけの価値があったのだというわけです。わたしたちは、自分の価値を証明しようとしますが、それは心の底で、自分の存在に不安を感じているからではないでしょうか?
 だから、わたしたちは自分には、生きている価値があるのだと思いたいし、そう言い聞かせていなくては不安なのです。でも、神さまはそういった見方をされないのです。この世の選びの基準で考えるならば、これはおかしな話です。
 彼らは弱々しくみすぼらしいのです。打ちのめされているです。だから、見捨てられて当然です。神さまはもっと価値がある他の民を選んでも全くおかしくはないのです。
 ところが、神さまはイスラエルに向かって、「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない。わたしはあなたの神である。」と仰るのです。この言葉は、わたしたちにとって衝撃的な言葉です。
 神さまはご自分が選んだゆえにイスラエルを見捨てないし、今も、またこれからもあなたの神であると宣言されるのです。たとえ、イスラエルの民が大変弱く、貧しく、生きている価値がないように思われても、神さまが自分たちのことを見てくれず、訴えにも耳を傾けて下さらなくても当然だと思っても、神さまは彼らを愛し抜こうとされるのです。
 確かにイスラエルの民は、国を失いました。大変情けなく、誇りを失い、生きる価値などないとしか思えなかったはずです。でも、神さまはその彼らを見捨てない。わたしはあなたの神だから、あなたと共にいると仰る。
 神さまは苦しむ者に目を留め、手を差し伸べて下さろうとする方です。たとえ、わたしたち自身が苦しく、情けない状況に陥ったとしても、ふがいないあなたであったとしても、神さまは共にいてくださるというのです。
 しかも、それだけでなく、今日の箇所の最後にあるように、神さまは、わたしたちを強め、助け、ご自分の力を与えて支えて下さる方なのです。そして、このメッセージは聖書を貫いていくのです。

 わたしたちはそのことを忘れてはなりません。わたしたちは、この世の中で懸命に生きつつも、様々なことに苦しみ、悩み、不安を抱えます。けれども、どんな時にあっても、神さまはご自分の呼びかけに応えて歩み出した者をお見捨てにならないのです。
 神さまが共にいると言われる時、それはただそばにいるということではありません。わたしたちに寄り添い、わたしたちと共に生きてくださる。わたしたちに力を与え、守り、支えて下さるのです。
 しかも、神さまは精神的な助けとなってくださるだけではありません。信仰者は、神さまに助けられたという経験をすることがあります。あの時、神さまが手を差し伸べて下さったんだとしか思えないことを経験するのです。
 わたしたちは苦しい中、悩みの中で、不安になります。孤独を感じます。誰も自分のことなど見てくれない。理解してくれないと思い、自分は生きる価値などないのではないかとすら思ってしまう。
 でも、神さまはそのような闇を振り払って下さる方です。恐れることはない。不安になることはない、わたしがあなたと共にいると仰ってくださり、わたしたちから悪を遠ざけ、善い方向へと導いて下さるのです。神さまは命の力を注いで、生きる力を取り戻させてくださるのです。
 それゆえ、神さまが共におられることは、大変心強いことなのです。だから、聖書の中でも多くの人が好きな聖書の箇所としてあげる詩篇23編には、神さまが共にいてくださる心強さが歌われています。
 少し分かりやすく語ります。「神さまはわたしを導く方であって、わたしには乏しいことがない。神さまはわたしを緑の牧場に休ませ、水のほとりに伴ってくださり、憩わせて下さる。神さまはわたしの魂を生き返らせ、ご自分が呼びかけてくださったゆえに、わたしを正しい道に導いてくださる。それゆえ、わたしは死の影の谷を歩むときも、わざわいを恐れません。神さまがわたしと共におられるからです」。ここにはっきりと神さまが共にいてくださる幸いを語る言葉があります。
 しかも、神さまが共にいると仰るのは、この世のことだけではありません。神さまは、わたしたちがこの世の生を終えた後も共にいてくださると約束してくださっています。イエス・キリストがそうであったように、わたしたちもまた天の御国へと導き入れられ、神さまと共にいることが出来るようにしていただけるのです。
 この世においても、その先も、わたしはあなたと共にいる。これは神さまの呼びかけを受けたすべての人に与えられている約束です。
 神さまは、わたしたちに命を与えるだけでなく、わたしたちと共に人生を歩んで下さり、わたしたちを強め、守り、支えて下さる方、命の力を与えて下さる方なのです。
 その方がわたしたちと共にいてくださる幸いを思い、新しい、一週間の歩みを始めてまいりたいと思います。祈りを捧げましょう。