風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

梨木香歩=作『りかさん』(新潮文庫)と武田英子=著『人形たちの懸け橋ー日米親善人形たちの二十世紀』(小学館文庫)


NHK経営委員:新聞社拳銃自殺事件を礼賛 百田氏は『永遠の0』で「天皇のために死んだのではない」と連呼していたから、同じNHK経営委員でもこの長谷川三千子氏とは考え方が真逆なんだな。それとも百田氏も「特攻隊員達は天皇のために死んでいった」と今では考えを変えているのだろうか?そのうち「天皇のために戦争に行け」とか言い出しそうだな。(ミルトス)

以下は、以前書いた紹介文を手直ししたもの


梨木香歩=作『りかさん』(新潮社文庫)
『約束の国への長い旅』の紹介で、私は、「誇り」について書きました。「自分自身の基盤となる誇りを傷つけられては生きてはいけない」と。けれど、私はここで終わるわけにはいかないと思っていました。自らの誇りを守るために他者の誇りを傷つけるということが、実際に起こっているからです。私は自分の誇りを超えたいのです。そんなことを考えながら、梨木香歩=作『りかさん』を紹介しようと思います。
梨木香歩という人は、一番新しいエッセイ『春になったら苺を摘みに』(2002年2月発行)を読んでも、宗教、思想、民族、文化の違いを超えるものを追い求めている人だということが分かります。この物語『りかさん』は様々な視点で読み取ることの出来る作品だと思いますが、ここではこのテーマにそって紹介したいと思います。

リカちゃん人形をほしがっていたようこのところに祖母から黒い髪の市松人形がおくられてきた。そのお人形には着せ替え用の着物と小さな食器、それに説明書がついていた。その説明書には、「まず、朝は着替えさせて髪を櫛でとき、柱を背にお座布団にすわらせておきます。その前に箱膳をしつらえる。コップに汲み立ての水を一杯。おみそ汁を漆のお椀に、炊き立てのご飯を焼き物のお茶わんに、おこうこは鶴の小皿。大事なことはようこちゃんも一緒に食べること。・・・」と書かれてあった。ーこのお人形りかさんは魂を持つ人形だったのです。

この『りかさん』の巻末に参考文献として、武田英子著『人形たちの懸け橋』(小学館文庫)が挙げられています。日本人移民の排斥が生じ始めたアメリカで、日米の友好を願った宣教師シドニー・ルイス・ギューリック氏の働きかけで、アメリカから日本へ西洋人形を送る計画が進められたのです。3月3日のひな祭りに向けて、それぞれの子どもたちが、あるいは学校や教会などの団体が人形を購入し着替えの洋服などを手作りし、日本の慣習や風土についての学びをして人形を送り出すのです。
この『人形たちの懸け橋』の中に、歴史学者であり人形研究家でもあるテリー・ヒーナさんが語った言葉が記されています。「人形は玩具でないと考えた日本人に、ギューリック博士の人形計画の精神は当てはまるのです」と。ひな人形に菱餅やあられや酒を供える慣わしを持つ日本人。玩具ではなく魂を持つ者として大切に扱う日本人。しかし、その日本人が大戦のさ中、この親善人形を“敵性人形”として竹槍でついたり焼却したりしたのです。その事実を読み進むにつれて、私などは「日本人ってなんてひどいんだろう」と思ってしまいます。けれど、そう思って終わることは、ギューリック博士らの行為を無駄にすることです。

この『りかさん』の中で梨木氏は、ようことその祖母を人形を慈しむ存在として描き出しています。殊に、ようこの祖母については、続編の『からくりからくさ』の中でも「祖母の本性は、『育もう』とすることにあった。草木でも、人形の中に眠る、『気』でも」と書いています。日本的な特性を徹底して描いているかのように思えます。けれども、その中に他者への偏見や自分自身の誇りを超えさせるものへと目を向けさせる何かを感じるのです。

長い年月隠されていた焼け焦げた西洋人形を見つけたようこに魂を持つ人形りかさんは言います。アビゲイルは、かわいがられることが使命なの。かわいいって抱きしめてあげて」
                                        (『聴く』2003年2月号)



以前、私は『りかさん』の紹介で、この物語の中に「他者への偏見や自分自身の誇りを超えさせるものへと目を向けさせる何かを感じる」と書きました。それが、何なのか、ずっと考えていたような気がします。そして、分かったような気がします。今回、この梨木香歩=作『りかさん』(偕成社について、もう一度書いてみたいと思います。

蓉子は、焼け焦げて無惨な姿のアビゲイルを抱きしめます。私達は、特に、私達女性は人形やぬいぐるみや、かわいいものを見れば抱きしめたくなる。それは、自然なことです。けれど、ここで描かれているのは、そんな自然な感情の発露としての“抱きしめる”という行為ではありません。抱きしめようとしている対象は焼け焦げて頭髪も抜け、片目をかっと見開いている、「かわいい」というよりむしろ恐ろしいと思えるような人形なのです。

私達は時に「生理的に受け付けない」という言葉をもって、他者を拒絶することがあります。自然な感情に従うなら、それは私達を“抱きしめる”という行為へ導くとは限りません。りかさんから「アビゲイルを抱きしめてあげて」と懇願された蓉子は、煤けて真っ黒な体のアビゲイルを前にして、うめくような声をあげるのです。たじろぎながら、しかし蓉子はりかさんの助けを受けてアビゲイルを抱きしめます。ここで描かれているのは、はっきりとした意志の伴った“抱きしめる”という行為なのです。
けれど、梨木氏は、その意志的な行為を、人形の助けによって蓉子の肉体に自然に宿るような形に描き出しています。私はここまで書いて、どうしてもキリストを思い浮かべずにはおれません。キリストは、肉体をもってこの世に来られた神の愛の形ヨハネの第一の手紙4:9~)ではなかったでしょうか。

『りかさん』の中のアビゲイルの巻」の中盤で、アビゲイルが親善大使としてアメリカから遣わされてくる前後の様子が描かれます。遣わそうとしている人々の愛情を体いっぱいに受けてアビゲイルは日本へとやって来ます。「まぶしい光の洪水のような愛情を日本の子どもたちに伝える」という使命を帯びて・・。人形とは“人の形”と書きます。人の形に作られたものを“人形”と呼ぶのです。ここでも私は聖書の言葉を思い出さずにはおれません。旧約聖書の創世記において、「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記1:27)と書かれています。人は、愛である神にかたどって愛する者として造られたというのです。アビゲイルも愛を運ぶ者として日本へと遣わされます。

この『りかさん』には、日本女性の本性とも思える“慈しむ”という衣の中に意志的な愛を彷彿させるものが幾重にも織り込まれて描かれているように思えます。私にはまるで、「母性的なものも一神教的なあり方も超えて、それらを包摂したところに民族的な偏見や誇りからの解放があるのだ」と伝えようとしているかのように思えるのです。

神が信じられないという時、私達は直接神につまずくだけでなく、周囲にいる人々に、神の周辺にいる者たちにつまずくのではないでしょうか。神の愛をゆがめて解釈した言葉に、神の言葉を自分の都合の良いように利用しようとしている人々によって・・。
梨木香歩という人は、それら周囲のものを振り切って、ひたすら手を延べ、愛そのものに直接ふれようとしている人なのではないかと、私は思うのです。

信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エフェソの信徒への手紙3:17~19)                                        (『聴く』2006年2月号)

関連過去記事「イ サンクム=著『半分のふるさと』と武田英子=著『人形たちの懸け橋』」
  ↓
http://d.hatena.ne.jp/myrtus77/20131016/p1