愛にとって人の資格や価値や意味は問題ではない。また愛は集中的であって、愛する人以外の一切を忘れる瞬間を知っている。これは盲目のとらわれ(これはいつも愛する人のことしか考えることが出来ない)とは別である。(略)愛は…今、ここで出会っている、この人への集中である。(八木誠一=著『キリストとイエス』p50)
小学校教員となって一クラス40人前後の子ども達を担任し、私には大勢を相手にするのは向かないと思った。そして障害を持った子ども達の担当を希望した。
組み合わせを変えながらであったが、最重度と言われる子どもを卒業の年まで担当した。しかし卒業前の半年、進路についての考えの相違で、親から、子どもを登校させることを拒否され、訴えるとまで言われた。
実際は法律的には訴えられなかったが、県教委まで話が行き、指導を受けた。
毎日、親とは一日の様子を便りでやり取りしていたが、そこに書いた事柄で訴えるという事であった。だから、書いたものは後に残るから今後気をつけるようにという注意である。
何を書いたのか?「施設の見学にどうか行って欲しい」ということだった。「もし交通費が必要なら私がお出ししますから」と。この一言が余計だった。侮辱したのだ。そんなつもりはこちらには全くなかったのだが。
訴えられはしなかったが、卒業式にも出ては貰えなかった。
言葉を持たず、パニックを起こすと激しい自傷行為を起こす子どもだった。私以外に、何年もこの子の担当は出来なかっただろうと今でも思っている。
けれど、私が担当して言葉を話せるようになったかと言えば、そうはならなかった。もちろん、「成長させて下さるのは神」なのだから、それは仕方がない。
しかし、最後は登校拒否であり、訴える、だ。
自分がやって来たのは、なんだったのか?・・。
しかし、このことを通して今の私が存在している。
引き抜き、壊し、滅ぼし、破壊し
あるいは建て、植えるために。(エレミヤ書1:10)
新たに建てられるために、私は打ち砕かれなくてはならなかった。
しかしこの出来事には後日談がある。
子ども達が卒業して、僻地の学校に転勤になった私の所に前の学校の同僚教師から電話が入った。私の勧め通りにして良かったと父親が言っていたと伝えて遣ってくれという校長からの伝言であった。
私はこのことで叩かれたが、結果的に、子どもの事を考え、親のことを考えた私の勧め通りになったのだった。
「「敗北の勝利」というようなものがあるとすれば・・」という過去記事を書いたが、「敗北の勝利」と言えるような出来事が実際に現実の世界で起こり得るのだ。
神が働いていて下さるなら、打ちのめされても、そこから立ち上がることが出来る。何度でも。