風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「敗北の勝利」というようなものがあるとすれば・・(β遮断剤が切り捨てられた!)

 

「敗北の勝利」というようなものがあるとすれば、それは背後で、神が生きて働いておられたからだという他はないだろう。

 

心不全で最初に入院した時、(心不全の薬として処方されていた)β遮断剤は最期(死ぬ)まで飲むことになる、と言われた。

BNP(ヒト脳性ナトリウム利尿ペプチド)の値が正常に戻って心不全が改善されていても、止めるとまた悪くなるからと言って、服用を続けさせられた。

 

複数の薬を一つずつ止めていくようにさせたいが、この薬を止めさせるのは難しそうだ、と考えていた。だから医者との駆け引きのように、夫がいる前で、「β遮断剤は飲み続けなければいけないだろうと思いますが、こちらの薬は止めること出来ませんか?」等と尋ねていた。

だから夫は、私に向かっても、「君はβ遮断剤は飲まなければいけないと言うけど、僕はこれも止めたいよ」と言っていた。

 

私は、一つずつ薬を止めていって、あなたを70歳くらいまで生きさせてみせると思っていました。それは、私には出来なかったけれど、神様にはお出来になります。(夫への手紙から)

 

救急車で運ばれる前に、ゴミ箱を確認した。夜に飲んでいたβ遮断剤を食後に飲んだのを忘れて寝る前にも飲んでしまったのではないかと思ったからだ。ゴミ箱には飲んだ後の薬の袋が一つだけ捨てられていた。

 

夫が飲んでいたβ遮断剤のカルベジロールには副作用として「むくみ」と記載されている。

倒れる前にカルシウム拮抗薬の量を増やされていた。カルシウム拮抗薬の副作用にも「むくみ」と記されている。そして「便秘」とも。夫は倒れる前あたり、「便秘」に苦しんでいた。

夫と一緒に散歩に行っていた娘から、「お父さんが足の爪の先から血が滲み出してくると言っていた」と聞いた。脳内出血で倒れた後に聞いた話だ。

 

そして倒れた後、転院してすぐに腸閉塞を起こした。

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カルシウム拮抗薬は,腸管の拡張による蠕動運動の低下下部食道括約筋の収縮力低下など,腸管への影響が知られている.(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjspc1994/5/2/5_2_138/_pdf/-char/ja

 

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この時点で、カルシウム拮抗薬とARB系降圧剤も半量に減らして頂き、周3日の服用となっていた。

 

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「妙な浮腫」という言葉を聞きながら、薬のことを考えていた。

帰り道で娘も、「やっぱり薬を減らしてくれたから、浮腫がとれたのかなぁ?」と言うので、帰ってから「カルシウム拮抗薬副作用 浮腫」で検索をかけるとすぐに出てきた。

 

 Ca拮抗薬の降圧効果は、主に血管平滑筋の弛緩による血管拡張作用により得られるが、細静脈の血管拡張作用は強くないため、毛細血管圧が上昇し、血漿が組織間質側により多く移動し、間質に貯留することがある。Ca拮抗薬による浮腫は、全身の循環血漿量の増加が原因ではないため、フロセミド(商品名オイテンシン、ラシックス他)のようなループ利尿薬を使用しても改善しにくいことを知っておくと、Ca拮抗薬による浮腫を早期発見できるポイントとなり得る。Kさんが利尿薬を飲んでも効果が得られなかったのは、このためと考えられる。https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/di/digital/201707/551905.html

 

カルシウム拮抗薬の増量と(心不全は改善しているというのに)β遮断剤を飲み続けていたことで慢性的にむくみ、寝る前のβ遮断剤が最後の一押しとなって横になった途端、脳内出血を起こした、と考えられる。

 

倒れた後、β遮断剤は服用しなくなっていた。あれほど「飲むのを止めさせることは出来ない」と言われていた薬が一番先に切り捨てられたのだ。

 

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腸閉塞を起こして具合が悪くなった時に、やはり減らして下さっていたのだと、一年半後に分かった。

私は主治医とゴタゴタを起こしたくなかったので、手紙を読んで下さるだけでいいです、お返事は要りませんと言っていたのだった。

やはり薬を減らして頂いて、それ以後、落ち着いたのだ。

 

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詩人は、バビロニアの有名な法典のように、バビロンもエルサレムと同じようにされればいい、と願っています。なぜ願うのか。それは自分たちには報復する力などなく、辱めに耐えるしかなかったからです。

 

(略)

 

 罪の世では、余りに理不尽な状況、自分ではどうすることもできない状況、とても受けとめることのできない事柄というものがあります。そんなとき、神の民は、神が裁きを成してくださることを祈り願いました。

 

(略)

 

 詩編を読み始めるときに申し上げましたが、詩編は神が語りかけられた言葉ではなく、民の祈りの言葉です。神がその祈りを受け入れ、ご自身の言葉、神の言葉としてくださいました。それはこの137篇も含めて神が「こう祈りなさい。こう祈っていい。わたしが聞く」と言ってくださっているのだと思います。

 

(略)

 

 現代でも、戦争などにおいて、子どもたちの命が奪われ、弱い者が辱められる状況はなくなっていません。新しい武器・爆弾が開発され、古よりもはるかに悲惨な状況を生み出しています。

 わたしたちは、神の国が到来するその日まで、この137篇も神が与えてくださった神の言葉として祈ります。今もなお怒り・悲しみに苦しむ人々、涙せずにはいられない人々と共に、神に祈っていくのです。