キリスト者とは「キリストに所属する者」という意味らしい。英語ではクリスチャンだそうだ。
私はどちらの言い方も好きではない。クリスチャンというのは舌がもつれて言い辛いし、何か甘えたイメージがあるから好きになれないのだ。全く表層的な印象に過ぎない。その程度の好みでしかない。
キリスト者という言い方は、格好をつけている感じで好きではない。ただそれだけだ。自分で自分をキリスト者などと呼ぶ人間がいたら、「そんな人間は信用ならない」、申し訳ないがそんな風に思ってしまう。
讃美歌にこういうのがある。529番、「ああうれし、わが身も主のものとなりけり、うき世だにさながら、あまつ世のここちす。歌わでやあるべき、救われし身の幸、讃えでやあるべき、み救いのかしこさ」— こんな讃美歌を喜んで歌う者だけは心秘かに自らを「キリスト者」と思っていて良いだろう。「キリストの者」となったことをこんなに喜んでいるのだから。
しかし私は、「キリスト教徒」という言い方が好きだ。
かつて、「イエス様が隣人を愛しなさいと言っておられるのに、私は母を愛せない」と言って、私の目の前で涙を流した人がいた。この人は、ドストエフスキーと同じことを言ったのだ —「キリストの教えどおり、人間を自分自身のように愛することは不可能である」。
しかし、こんな涙を軽く見てはいけない。
キリストの教えの前に立って、「従えない」と涙を流す、ここから本当の信仰が始まるのだから。