20日の日曜日は、前の教会で昨年お呼びした先生の教会との説教者交代、講壇交換だった。
今回は、「クリスチャンは死んでも大丈夫なんです」という言葉は出てこなかったが、バルトは元よりハイデッガーにまで言及され、名前こそ出なかったものの、マルクス資本論は説教の全体に関連して先生の頭の中に置かれていただろうと思われる。
説教題は「シューブ(帰る:ヘブライ語)」。
聖書箇所は、ルカによる福音書15章11節から32節。放蕩息子のたとえの箇所である。
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカによる福音書15:11~32)
「雇い人の一人にしてください」― 私たちの信仰は、働いた分に見合っただけの救いを下さいという雇われ人の信仰に留まったままだ、と言われた。
礼拝とは、あなたがここに来たことが嬉しい、あなたの存在自体が嬉しいと言って喜んで下さる神の懐へと立ち帰って、神の喜びを喜ぶことだ、と言う。
「シューブ、帰る」、神の喜びの中に招き入れられて神の喜びを喜ぶ、それが礼拝であり、生きるという事なのだ。
途中に引用されたホセア書も面白かった。
ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。(ホセア書11:8,9)
憐れむというのは神の本能であり、はらわたから出たものなのだと言われる。人間の方が頭で考え、理性的なのだと。
そして、「私は神であり、人間ではない」(11:9)、こんな言葉があったのかと思った。これまで親しんできた口語訳では、「わたしは神であって、人ではなく」と後に言葉が続くので印象が弱かったのかもしれない。
私は10月9日のブログで、ドストエフスキーの言葉から「他者の中に私も含まれている」、「愛の対象には自分も含まれている」ということを書いて、最後に「三位一体の神へとつながっていくようである」と書いたのだった。
今回の説教は三位一体の神についてから始まったので、説教の冒頭から回答を得たような気がした。