風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

選挙と教会、または、「政治」と「キリスト教」

宗教の本質は、ひとたび理性に死んでこれから自由となり、超越者に生かされるところにある。宗教的実存の共同体、すなわちキリスト教の場合教会は、国家や民族や伝統の壁を超えた人類的共同体であることを本質とする。教会の希望、または使命は、キリストにある世界平和の実現なのである。教会はそれ自身としては権力を持たないし、また持つべきでもない。教会は政治的支配の機構ではない。教会は理念の対立を超えるゆえに非政治的である。しかしその仕方は、国家が(実際はともかく)本来は市民の利益追求活動とその対立を超えるゆえに、特定の利益団体を支持しないはずであることに類比的なのである。教会は、それが事実理性を超えた立場であるなら、政治運動と同じレベルで特定の理念を教会として支持しこれに奉仕すべきではない。これはもちろん教会員が市民として政治活動(または利益追求活動)をすることとは別の事柄である。教会はこれを制限してはならない。教会は、むしろ、教会としては、特定の理念の支配から自由であることによって、それぞれの理念に正しい位置を与える地平を切り開き(理念群は統体を形成すべきであって、ある理念が他の理念を自らの下に系列化すべきではない)、人々を現実にその地平に立たせることによって、かえって人々が市民としてそのつど状況に応じて理念を正しく生かすことを助けるべきなのだ。換言すれば教会は国家的理念から一面自由でありつつ、他面では、人類的連帯の地平から国家に対して批判的発言の責任を負う。つまり原則的に体制べったりではないし、といって反体制とひとつなのでもない。教会は、教会の存立自身が脅かされたときには、敢然と世と闘うべきである。…。教会は、「ユダヤ人とギリシア人」とが、「男と女」とが、また「支配者と民衆」とが、その差別があるまま、しかしその差別にもかかわらず、「キリストにあって」現実に「兄弟である」地平の存在を証しするのである。(八木誠一『キリストとイエス』(講談社現代新書)より)


年に何回かのコンサートや近頃では子ども食堂、土曜日の子供会、果ては平和運動まで、客寄せパンダのように、何でも教会の中に持ち込んでやろうとする風潮がある。しかし私は、この本を読んだ20代の頃から、こういった考えは違うだろうと思って来た。教団としての取り組みは別として、教会の第一義は御言葉を語ることであって、これ以上も以下もない。教会員は、教会で御言葉に聞いて出ていき、一人一人が活動するのが正しい、と私は考える。だから「原発反対」のプラカードを持って関電前に行くのも自分一人の行動としてやっている(今は行けていないが・・)。

今回の選挙も、教会員一人一人が主の御心に聞いて、聖書に照らして考えて投票するのが正しいあり方だろうと思う。



北朝鮮よりこっち(↓)の方が問題だろう。ストロンチウム放射性物質)まき散らしてるかも知れないんだから!