そこに在ること ただあるのみにて燦然と小さき硝子の壺よ
葛原妙子『葡萄木立』
あんまり明るい秋の日が続いたので葛原妙子のこの歌を載せたくなった。
「愛」はいつも、無用なもののように思われがちだ。しかし・・。
愛は死のように強く熱情は陰府のように酷い。
火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできない
洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと
財宝などを差し出す人があれば
その人は必ずさげすまれる。(雅歌8:6~7)
じやぐじやぐと牛乳パック切り開くそこに愛はありやなしやと
すべての行為は愛を基準に考える欠陥だらけの愛だとしても
愛そうと思わなければ今ここにわたしはいない すずめもいない
愛そうと思わなければこんなブログ(原発反対とか、放射能ガレキ焼却汚染拡散反対とか、自然破壊するから太陽光も風力発電も反対!)なんて書いてはいない。
もともと自分の作った歌や俳句擬きを載せるために作ったブログなのだから。
愛そうと思うのでなければ、「いち抜けた」と言ってすぐにでも止めるだろう。
「愛」をないがしろにする人に問いたい。あなたのその行為はどこから来ているのか、と。愛する故ではないのか、と。愛でなければ、周りを見返してやりたいからか?仕返しか?違うだろう、曲がりなりにも愛そうとしているからではないのか、この世界を、と。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバルと同じである。
たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。(コリント人への第一の手紙13:1~3)