風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

「憲法には愛がある」かどうかは私にも分からないけれど・・?


● 草の実も木の実も浄き糧ならず鳥よ瞋りて空に交差せよ 柏崎驍二『北窓集』 ※「瞋」にルビ「いか」。
この歌集は、あの震災以後に出された詩歌の本のなかで…、もっとも信頼できるもののうちの一つであると私は思う。…。
東日本の震災の経験によって問われたり試されたりしたものは、日常のなかでの思想の在り方だった。…。人々は、誰もが現実の厳しさを突きつけられながら、自分の言動の是非について、いちいち具体的に判別し、弁別し、決断し、断念し、受容しながら、生活というものを維持して来なければならなかった。(抜粋引用)

● 憲法には愛がある
憲法には、○○○さんの言う愛があると思うのよね」。
そのひと言から、私と憲法との新しい関係が始まった。(抜粋引用)
(○○○には名前が入っています。リンク先で直接ご覧ください)

日本国憲法に愛があるかどうかは私には分からないが、罪に堕ちて愛そうとしながら愛し得ない人間に神が与えられた律法(戒め)の根底には愛がある、ということは理解できる。

旧約聖書に記されている事細かに定められた戒めは人々が愛し合いながら生きていけるようにと示されたものである。けれど、ルツ記などを見ると、戒めに進んで従うことが人間にはなかなかできないものだということが良く分かる。

ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。(ルツ記2:22~23)
だからこそ、神は戒めをお与えになったのだ。そしてだからこそ、神はひとり子イエスをお遣わしになった。

これらの事細かな戒めは、キリストによって二つへと集約される。すなわち、「主なるあなたの神を愛せよ」「あなたの隣り人を愛せよ」。そして、「これより大事ないましめは、ほかにない」(マルコ福音書12:31)のである。


けれど、愛するというのはどうすることであろうか?
子どもの頃は、「あの人にこうしてあげて」、「これはしては駄目よ。危ないから」と親からの指示に従えば良かった。けれど大人となった今では、私たちは、どうすることが愛することなのか自ら考えて行動しなくてはならないのである。
もしかしたら、こうすることが愛することだと一歩踏み出した途端、谷底へと転落しているということがあるかも知れない。「そちらに行くと良いよ」と言って、隣人を崖から突き落としてしまっていることもあるかもしれない。大人であっても、キリスト教徒であっても間違う場合があるのだ。

私も、原発事故後すぐの頃には、福島で作られた作物を購入して食べようと考えていた。何も考えないで作った物より、たとえ福島の物であっても、放射能汚染に対する研究をして作られた作物の方が良いかも知れないとも考えていた。
しかし時が経つうちにその考えが甘い考えだったと思うようになった。そして、放射能汚染された物を食べることが本当の意味で被曝地の人々を応援することになるのだろうか、と疑問を持つようになった。立ち止まらずに突き進んで行けば、愛とは全く反対の方向へ向かうかも知れない。そんな風に思う。

以下、国会での奥田愛基氏のスピーチ(@YouTube)からのミルトスによる抜粋聞き起こし

確かに若者は政治的に無関心だと言われています。しかしながら現在の政治状況に対してどうやって彼等が希望を持つことが出来るというのでしょうか。関心が持てるというのでしょうか?…。どうかこれ以上政治に対して絶望してしまうような仕方で議会を運営するのは止めてください。…。与野党の皆さん、どうか若者に希望を与えるような政治家でいてください。…。政治のことをまともに考えるのは馬鹿らしいことだと思わせないでください。

ここで語られているのは若者の本音の訴えである、と思う。
若者達を政府に利用させてはならない!

国民投票はやってはならない!