風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

礼拝説教(ルカによる福音書13章1節から5節)を聴いて・・


ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。(ルカによる福音書13:1~5)

1節に記されているのは、「ピラトが、犠牲の捧げものをしようとやってきたガリラヤ人を殺した」ということをある人々がイエスに知らせに来たということである。ここだけを見れば、殺害されたガリラヤ人を可哀想に思って報告に来たのかと思ってしまう。けれど、次のイエスの応答を見ると、全く見当違いのイメージを描いていたことに気づく。つまり、知らせにきた人々は可哀想に思って報告に来たのではなく、「ピラトに処刑されたガリラヤ人たちは他の者以上に罪深かったからあんな殺され方をしたのか」という質問をするためにイエスのところにやって来たのである。

ここまでの説教を聞いて、私は、東日本大震災後に石原慎太郎が発した言葉を思い起こした。こういった考え方というのは私達の社会に根強く蔓延っている。つまり「因果応報」という奴である。しかし世の中、そんなに簡単に答が見つかるなら苦労はしない。

この後のイエスの答を聴いていて私は、「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ人への手紙3:10)、「善を行う者はない、ひとりもない」(詩篇14:3)という御言葉を思い起こした。

どんな死に方をしようが、私たち人間は全て罪人なのである。自分のことは脇に置いて、そういった災難に遭った人達だけを罪人呼ばわりしようと思っても、イエス・キリストには通用しないということだ。

けれど世の中には、「あんな災害に遭ったからあの人達は何か悪いことをしていたのだ」、「あんな死に方をしたのは天罰を受けたということだ」というような言い回しが横行しているように思う。随分と科学が発展しているように見えて、私たちの生きている世界はイエスの生きた時代と何ら変わっていないではないかと思わされる。そして同時に、聖書の普遍性を痛感する。私たちも今この言葉に聴かなくてはならない!

水害に遭って、「神様は私を罰せられた」と悲しんでおられたYさんは天国で昨日の説教を聴いておられたかな?あぁ、天国に行かれたのだから、地上の説教など聴く必要なかったね。「Yさん元気〜?」手を振ってみる。

以下は、毎日新聞連載「原子の森 深く24」より湯川博士の言葉。
「未開人は日食があると何か地上にも凶事が起こるだろうと驚き恐れた。われわれはこれを滑稽だと思う(略)しかしわれわれはしばしば自分の身の上に何が起こるか、 その瞬間まで知らずにいることがあるという点においては、未開人とあまり選ぶところはない」(「日食」、「目に見えないもの」所収、76年)