風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

サルトルbotの言葉が・・

ツイッターで見つけたサルトルbotの言葉が面白い。だけど、面白いのは後にして、先ずはこれから・・。
「多くの場合、私の思考は言葉に結びつかないので、もやもやしたままだ。それは曖昧でおかしな形を描いて、呑み込まれていく。そしてたちまち私はそれを忘れてしまう」『嘔吐』

これは若い頃の私の状態と同じだと思った。

考えるためには基準のようなものが必要なのだと思う。私の場合は神とか、キリスト教とかを基準に据えることでこの状態から脱却したように思う。とりわけ聖書を基準に据えたということが安定して思考するために貴重だったと思う。聖書というのは不思議な書物で、基準に据えても答がすぐに得られるわけではない。ただ読んだだけでは解らない、考えなくては解らないからだ。

例えば、以下のような言葉も・・。
エスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(ヨハネ福音書9:1~3)
最初の部分は、因果応報的なその時代の人々の常識となっていたであろうことをイエスが覆しておられるというのは解るのだが、最後の「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」というのは、問わなくては解らない言葉である。しかも生きている間、何度も問い直さなければならない、そのような言葉なのである。


「独りきりの生活をしていると、物語るということさえ、どういうことなのか分からなくなる。本当らしさは友人とともに消えてしまう」『嘔吐』

この言葉にも、とても実感する。だから、対話をしてくれる人間が必要なのだ。そして書物も貴重な対話相手である。


それから、非常に興味深いと思ったのが以下の言葉だ。
書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。『言葉』

この言葉には唸らされる。私などは、「書くという行為は生きるために欠かせない」と思っているのだ。それなのに・・。けれど、全く分からないわけではない。例えば、死への恐怖心と「死にたい」という死への願望は、しばしば表裏一体で有する感情であると思う。それと同じような感じかも知れない。そして確かに、書くことに没頭していると、食べたり、飲んだり、眠ったりという生きるために基本的に必要なことが面倒になってくることがある。


後、笑えたのは、この二つ。
けれども私は人びとのごく近いところで、孤独の上っ面に留まっており、いざとなったら彼らのあいだに逃げこむ決心だった。要するに、これまで私は単なる孤独のアマチュアに過ぎなかったのだ。『嘔吐』
つまり、万人に抗して、それらの本を書いたのだ。打ち込みすぎて、高血圧になってしまったほどだ。私のなすべきことは皮膚の下に縫い込まれていて、一日でも書かずにいると、傷痕が疼くしあまりにたやすく書きすぎても傷痕が疼くのだ。『言葉』

「孤独のアマチュアって可笑しすぎる!しばらく笑った。
それから、「打ち込みすぎて、高血圧になってしまった」って、なんか、雲の上の哲学者だと思ってたような人も高血圧に悩まされていたんだと思うと、どっと可笑しくなってしまった。
おもしろいなぁ〜、サルトル。でも、悩んでる人を笑っちゃいけなかったかな。