風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『こんなとき私はどうしてきたか』中井久夫=著(医学書院)

 ・・。患者さんがさんざん聞き飽きたようなことは言わないことです。アルコール依存症の人なら「お酒、やめなさい」と、何百回と聞いていることを言ってみても無駄なだけですよね。どこか新鮮味というか、驚きがある必要があります。だから私はいつも、「この患者がいままで聞いてないことは何だろう」と考えます。
 精神療法って、こんなことなんですよ。いままで聞いたことがないような言葉を耳にして、その人が「なんだろう?」と考えるようにすることが精神療法なのであって、言葉の魔術で患者さんを治すわけじゃない。
患者さんの考えを広げていく。そのためには、「またか」ということは話さない。壁に釘を打つときに、同じところになんべんも打ったら固定しないでしょう?「別のところに打つ」というのが大事なんです。
(中略)
 まずは、精神科の用語を使わないことが大事です。「幻聴」じゃなくて「きみの幻の声」と言います。「空耳というのもあるよね」とか。「それは絶対違います」と患者さんが言ったら、「どこが違いますかねぇ」と続いたりする。「ラジオの混線みたいに誰か向けのがまちがって入っているんじゃない?」と言っても「いいえ、絶対に違う」と答えますが、それでいいのです。言い合いはここでやめます。患者さんが考えはじめることが大切です。患者さんはしょっちゅう考えています。考えて考えて考えているのです。ただ独りで考えていて堂々めぐりになっていることが多いのです。面接や言葉かけは異物を入れて考えのぐるぐるまわりをちょっと外すきっかけをつくることです。
 サリヴァン先生は「面接とは面接時間以外の二三時間(患者さんのなかで)働いているものである」と言っています。空耳とどこが違うかを考えること自身が、患者さんにとってプラスの意味になります。自分で否定して、なぜかと考えるから受け身でなくなるわけですね。

           中井久夫=著『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院)


上記は、統合失調症の患者さんにどのように対応してきたかを語っておられる精神科医中井久夫氏の言葉である。けれど、これは、そのまま教会での説教にも当て嵌まるように思う。

キリスト教会の礼拝で語られる説教というのは、ただ一つのことを語るのである。つまり、神の子であるイエスが人となってこの世に来られ、私たちを罪から贖い出すために十字架上で死なれ、そして復活なさった、ということを。けれど、毎回同じように語れば、聞く側は最初の一言が発せられた瞬間にもう分かっていると思ってしまう。そしてその後の言葉は聞き流してしまう。聖書のどこからもただ一つのことを語るのであるけれど、聞き流されてしまわないように語る工夫というものは必要だろうと思う。
そしてやはり、教会の中だけにしか通用しない言葉というものがある。私が上で書いた「私たちを罪から贖い出すために」などという言い回しも教会の中だけで通用する慣用句のようなものだ。こういったものを頻用していれば、聞き手に深い思索を促すことにはならないだろうと思われる。

牧師の妻というのは長い年月ほぼ同じ人の説教を聞き続ける。独身の方はともかく配偶者のいる牧師は、妻のことを、あるいは(妻が牧師である場合もあるので)夫のことを第一番に考えて説教を語るべきだと思う(笑)。

しかし、逆の場合もあると思う。たとえば、認知症の方などには簡単な言葉を繰り返し語ることが大事ではないだろうか。これはもう説教から離れて言葉かけをする場合ということになるだろうが・・。クリスチャンホームに育たれた認知症の方などには、平易で基本的な言葉をかけるのが良いように思われる。




● カジノについて
賭博は何も生み出しません。・・。国民が不幸になることで受益するビジネスを国が率先して行うという発想が、僕には信じられません。
(中略)
それでも『金より大切なものがある。それは民の安寧である』ということは、飽きるほど言い続ける必要があります。(抜粋引用)