風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

『トムは真夜中の庭で』フィリッパ・ピアス=作(岩波少年文庫)

『トムは真夜中の庭で』を初めて読んだのは、頸椎の手術を受けて横たわっている母のベッドの傍らでだった。現実の時間の流れの遅さに耐えられなくて物語の中へと逃げていたのだ。
その母を連れて私達一家は札幌に引っ越した。手術は受けたが母は元通り歩けるようにはならず車椅子の生活となっていた。およそ半年の間、私は故郷と静岡の間を行ったり来たりしていたが、夫の転勤が決まっていたために母を説得して住み慣れた地から見知らぬ地へと一緒に連れて行ったのだった。

真夜中の庭ー眠っているバーソロミューおばあさんの夢の中で、トムは少女の頃のおばあさんに出会う。

「一人の老人が何もすることもなく寝てばかりいるとき、それはなんの『役に立っている』のだろうと思われることがある。本人でさえそう思っているときもある。しかし、バーソロミューさんは、ただ寝て夢を見ているときに、他の誰もができなかったこと、トムを本当に支えてやること、ができたのである。(中略)この世で暇なく働いている大人の見方からすると、あまり役に立たないと思われている子どもや老人が、ただ存在すること、夢見ることによって、大人のできない重要なことをしている」(河合隼雄=著『ファンタジーを読む』)
時空を越えて行ったり来たりするファンタジーが苦手で、この物語を読んだだけでは理解出来なかった私は、河合氏のこの解説を読んで分かった気になっていたのだった。

母が札幌へ行くことを承諾したのは、自分の世話をするために娘が行ったり来たりすれば孫娘に寂しい思いをさせることになる、と考えたためだった。そうして母は北海道で私達の住まいから車で30分程かかる病院に入った。そんなことだったので、引っ越してからしばらくは母のことばかりが気になって、転校した娘の寂しさには気付かずにいた。
10年が経って、故里に帰って母が亡くなってから、何故かこの『トムは真夜中の庭で』について考えるようになった。病院に訪ねて行くたびに、孫娘に友達が出来たかどうかを気にかけていた母だった。そんな母のことが思い出された。そういえば、生まれてからずっと転校したことのなかった私と違って、母は、自身も小学3年の時に転校したのだった。「友達にさよならを言いに行ったけど会えなかった」という話を聞いたことがあった。そうだ、私の娘の寂しさを一番分かっていたのは母だったのだ。優しいことを口にしない人だったから、直接、孫娘に尋ねることはなかったかもしれない。けれど、日常の細々した雑務に追われて娘の寂しさに気付かずにいる私の傍で、娘の心に寄り添っていたのは祖母である私の母だったのだと、そんなことを思ったのだった。